てけけ日記

フィックショーン!

回転寿司 後編

体の殺菌を終え、魚の体内のような臭いのするホールに入る。スーッと息を吸うと、魚の死気が鼻から脳へ通り抜ける、ボアァっとして少し落ち着く感じがする。これだよ、これこれ。頭の熱が少し冷める感じがする。入って2,3個寿司を流してすぐ、沼田が入ってきた。なんだか申し訳なさそうにこちらをうかがっている。別に彼女に対して怒りを抱いているわけではない。俺は引きつった笑顔をお返しした。

彼女とのんびり話すこともなくお互いただただ手を動かした。こんな中、俺はやはり無心になることはできなかった。

俺は多分留年になるだろうな。切り分けた魚を定位置に置く。だいたい電車の遅延証明書があったのだからそれを素直に受理してくれればいいだけの話じゃないか。いくら大学側の決まりでもだ。少しばかり目をつむり、実験担当者が情けをかけていてくれさえすれば…。いや、実験の担当者は恨むべきではないな。彼らは言われたことを全うしただけだ、なにも悪いことはしていない。俺との利害の不一致であって判断としては彼らの正義だ。じゃあ俺は誰に怒ればいい。簡単に壊れた米握り機か?Suicaをチャージしていなかった過去の俺か?それとも、電車に飛び込み、遅れを生んだイカレ自殺野郎か?考え直してみればますます俺は不遇だ。なぜこんなに不運なのだ。おかしい。おかしいんだ。運命は平等だろ?どう考えなおしても全世界の不運の排気口は間違いなく俺一点に向けられている。寿司の排出口を覗くと向こう側に幸せそうに安寿司を頬張る若者たちが目に入る。運命は平等、平等なはずなのになんでこいつらはこんなに幸せそうにしてるんだよ。おかしいだろ。不平等だ。俺だけが一心に、大幅に超えた量、人類の背負うべき一人当たりの不運を大幅に超えた量、それを背に乗せられている。そんなバカなことが許されるか。お前らも受けろよ。この不運を、この不幸せを。俺は作業着のポケットの中にある硫酸に手を伸ばしていた。手は震えている。ポケットの中、右手で瓶を強く握る。後ろを振り返ると沼田がシャリの上で安定せず、どうしても落ちてしまうサーモンを慎重に乗せなおしている。ここだ。俺は手早く硫酸瓶を開けると、中身をシャリにぶっかけた。瓶の方は蓋もとじないまま燃えないゴミの箱にぶち込む。息が上がる。後ろを振り返る。沼田が気付いた様子はない。さっとサンマの切り身をシャリに乗せ、レーンに流す。俺が創作した硫酸入り毒寿司はレーンの端に少し引きずられ、回転するようにして、光の先へと旅立っていった。

さあ、デス・ルーレットのはじまりだ。

刹那。2,3秒後だ。全身が熱くなり、嫌な汗があらゆるところから流れ出してくる。じ、自分は、とんでもないことをしでかしたんではないだろうか。これからどうなる。俺はこれからどうなる。硫酸を積んだ毒サンマは米の上、レーンに沿って悠々(ゆうゆう)と客の前を回っている。大きめに切った、プリプリのネタだ。おいしそうな見た目に惹かれ、皿を手に取ったとき、その代償は108円では済まない。その命をもって支払われる。すぐに俺のせいだとバレるだろう。当たり前だ、俺が作ったんだ。しょうもない腹いせに、人生の小さな運否天賦(うんぷてんぷ)の流れに逆上して。俺のすべてが、誰かのすべてが、なにもかもが終わろうとしている。毒サンマは今、無事にコーナーを曲がれただろうか、それとも誰かの手に渡っただろうか。手足の震えが激しくなってくる。胃の壁を中から何かに突かれる感じがする。吐きそうだ。全て出てしまいたい。視界はくぐもり、頭はガンガン痛くなる。絶望、後悔、罪悪感をぐちゃぐちゃに混ぜた粘度の高い真っ黒な液体が、俺の目、鼻、口からあふれ出し、キッチンのまな板、切りたてのマグロの上にボタボタと落ちる。脳天が針に刺されたようにキリキリ痛む。痛い。痛い。感情の液体を受け止めたベチャベチャの手。その手のまま頭を引っ掻き回す。黒いドロドロの液体に絡めとられ、髪の毛がブチブチと千切れる。それでも脳天の痛みの方が数倍強い。構わず掻きまわした。力を込めすぎたのか爪で皮膚を掻き切る感触がする。皮膚が痛い、痛い。ええい、このまま全てはぎ取ってやる。俺はさらに力を込め...

「大丈夫ですかーー?」

突然の声にハッと目を覚ます。首をかしげる沼田。俺はすぐに自分の手を確認する。千切れた皮膚が爪に食い込んでいたり、抜けた髪の毛が大量に絡まっているなんてことは全くなく、ただただ涙と唾液に塗れてびしょびしょになっていた。

「ど、どうしたんですか、いきなり...」

よかった、本当によかった。あのまま、痛みのまま、死んでしまうかと思っていた。暖かい湯のような安心感が胸の内からあふれ出し、全身に巡っていくのを感じる。

「ちょっとー?聞いてます?」

目の前にいる女が救い出してくれたのだ。暗く深い奇怪の穴の奥から引っ張り上げてくれたのだ。俺は思わず目の前の女に抱き着いた。涙と唾液で汚れた、汚い顔と手のまま。

「な、なにしてるんですか、ど、どういうこと?なになに、どうゆう状態なの、これ」

一瞬ためらったが、全て白状することに決めた。どのみちバレることだ。沼田に抱き着いたまま自分の起こした過ちについて語った。レーンの向こうはお客で賑わっている。しかし、俺の声は狭いホールにはよく響く。包み隠さず丸々話した。単位取り消しごときで激情したこと。大学の備品を盗んだこと。あろうことか私怨で商品に毒物を混ぜたこと。気が狂い、そして助けられ、今、こうして恩人を思わず抱きしめていること。

沼田は、彼女は、殺人犯に抱きしめられていることを自覚して嫌悪感と恐怖で振り払ってしまうんじゃないか、それがただただ怖かった。しかし、彼女は終始驚いたり相槌を打ったりしながらも真摯に聞いてくれた。

「なるほど。じゃあ今、レーンにその毒入りお寿司がのうのうと回ってるわけですね?」

俺はこくりと頷いた。

「ほーー。奇遇ですね。アハハ。すごいすごい。あの、あの、私もなんですよ、アハハ...」

俺は彼女が突然何を言いだしたのか全くわからなかった。

「そのー、なんていうのかな、体に入れたら死んじゃう物?それをお寿司に仕込んで、そう、先輩と同じように。さっきの聞く限りだと、ほぼ、ほぼ同じタイミングで、お客さんに、まあ、レーンに、出しまし、たね...」

頭がこんがらがってくる。至近距離で目を背ける彼女に対し、俺は抱きしめたまま、いくつも質問した。

どうやら沼田は俺と同じように些細な不幸があったらしい。その不幸の具体的な内容までは教えてくれなかったが、それにカッとなって、俺と同じような思考回路を辿って、犯行に及んだらしい。

「ドクゼリって、知ってます?結構有名な毒草なんですど。綺麗な花を咲かせるんですよ。食べるとすごい苦しんで死ぬらしいです。すごく。私、サーモンの内側にすりつぶして仕込みました。今頃、誰かが食べちゃってるかもしれませんね。」

彼女のしゃべり方はだんだん落ち着いてきていた。

「それと、私もこのまま抱き着いていいですか?どうせ騒ぎになったら私たち、刑務所に入れられるんですよね。」

少しドキッとしたが、俺は素早く何度も頷いた。肯定の意を、前に前に押し出した。彼女は手をおそるおそる俺の首に回し強く抱きしめた。

「ふふ、先輩、あったかいですね。」

心臓がバクバクと鳴る。今、外のレーンには2つの毒入り寿司が回っている。老若男女がハシで寿司をつつき、死のルーレットに参加している。一方魚をさばくホールでは、魚臭い作業着とマスク、ロマンチックさの欠片もない衣装をきた男女。ジャズもない、シックな照明もない、客の喧騒と無機質な蛍光灯の下、男女は抱き合う。まわりには魚の切り身と米を固める鉄くず、空の毒瓶と、毒草の根だ。男女は罪を償う手前、人のぬくもりを、自由を、深く噛みしめている。

「私、毒の入った寿司、流したこと、別に後悔しないかもしれません」

俺は黙ってその言葉を受け取り、頷いた。目の奥が熱く、熱くなった。

「あっ」

何かに気付いた様子の沼田は俺から離れ、レーンの方に向かった。俺もそれについていった。沼田の目の先には、緑色の気味が悪い米の塊、正確には、ネタが横に落ち、明らかに何かが塗り込まれている様子の緑の米があらわになったものが皿の上にあった。沼田は落胆したような、ほっとしたような様子だった。

「ハハ、こ、これじゃあ、誰も取らないですよね...」

よかった。沼田は犯罪者にならなくてすんだのか。って、そろそろ一周するのか。俺も自分のレーンの方を振り返る。回ってきた皿の上には真っ黒になった何かよくわからない炭の塊のようなものがあった。なんだこれは、なんで炭、炭、炭…あ、そうだ、そうだった。 硫酸には炭化作用があるんだった。硫酸は炭水化物やタンパク質の水分子を奪って炭のように黒くしてしまうのである。気が動転していて反応が起こることに全く気付いていなかった。ということはこの寿司は米やサンマを真っ黒に変色させながらレーンの上を回っていたことになる。そんな不気味な物体、だれも取るわけがないじゃないか。

「...」

二人とも何か言いだすこともなく、毒寿司を処分し始めた。ホール内は沈黙で満たされている。俺は自分の顔が熱を帯び、真っ赤になっているのを感じた。ふと、沼田の方を見る。彼女は、自分の何十倍も顔を真っ赤にしているように見えた。熱くなったのか、マスクをずらしている。血色が改善したのか魅力的な赤い唇になっていた。今度、いい色の口紅を買ってやろう。そう思った。

回転寿司 前編

寒空のある日、息を荒げながら速足で歩く。何もかもがムカつく、どうして俺ばっかり理不尽な目に合うんだ。数時間前に生じたこの苛(いら)立ちは、強い波となって未だに脳をぐいぐいと揺さぶっている。それは熱を持ち、その熱がまた、苛立ちの波を起こす。これは、どうにも落ち着きそうもない。俺は歩を速める。

予報で気温は0℃を下回ると言っていた。だがその程度じゃこの興奮した頭は落ち着きそうもない。大道路の信号を永遠のような時間待って渡り、吐きそうなくらいの異臭のするゴミ箱のそばを過ぎる。角を曲がると、自分の吐いた白い息の向こうに女が見える。夕空の下、コンビニの横、真っ白なマフラーをオレンジに照らされながら、スマートフォンを耳に当て、笑顔で誰かと話している。ああ、ムカつく。俺がこんな状態だってのになんでお前はそんなに楽しそうに笑えるんだ?

俺は中流理系大学の学生で、奨学金だけじゃ遊ぶ金がちっとも足りないから、他の学生がそうするようにバイトをしている。バイト先は回転寿司屋で、昼間と夕方は死ぬほどに忙しい。ホールに入っていて仕事内容自体は簡単、米をクソデカい機械に入れて、出てきた米の塊に切ってある魚をのせるだけだ。脳が半分腐ったチンパンジーでもできる。ただ、衛生管理はアホほどに厳しい。皮膚がちぎれんばかりに手を洗い、その上に手袋をつけた後、それをさらに消毒液(俺はこれを毒液と呼んでいる)につける。頭にはババアが風呂に入るときに使うあの気持ち悪い形をしたピンク色のビニールを被り、呼吸を妨げる小さなマスクを口にべったりと張り付ける。ホールに入れば死んだ魚の匂いがツンと鼻をつき、しばらく作業を続けるうちに気にならなくなる。こんなことを言っているが、まあ単調作業の割にはいい時給だから個人的には気に入っている。

最近、新人で沼田という女が入ってきた。150㎝前後の背丈の小さい高校生だ。店に来る時の化粧はいつも薄く、絶対不幸になるだろうなってくらいの薄い色の唇をしている。髪も少しパサついていて、私服も無難な色の上着とジーパンで統一されている。一週間前に一度、一緒にホールに入ったのだが、てんでダメだった。食器を洗ったばかりの洗剤が付いた手でネタを掴み、チンパンジー用の米握りマシーンの使い方も分からずあたふたしている。俺の仕事が増える一方だった。まあ、これほどの無能も仕事に慣れれば多少はマシになるだろう。俺は慈愛を込めて丁寧に仕事を教えてやった。

そして今日、人がほとんどいない中、俺は沼田と二人でホールに入っていた。奴のかわいい無能さに手をやきながら、「口紅を塗り、髪のケアをしろ」やら「少しはおしゃれをしてみろ」やら、前回したような会話を交わしながら、クソつまらない単調作業を二人でこなしていた。 そんな中、事件は起きた。客足が強まる昼前、俺は退勤時間目前だったので、魚を切る作業のラストスパートに入っていた。その時、ガタンッという大きな音が背中の向こうから響く。嫌な予感を感じつつ、振り返ると床中に散らばる米、米、米、ひっくり返った米握りマシーンと青ざめた顔でこっちを見る沼田も同時に視界に入る。ついに…やらかしたな…。

ごめんなさいと連呼してくる沼田に、「いいよ、いいよ」と返しつつ、床の米を一緒に片づける。一通り拭いた後、アホほどに重い米握りマシーンを二人がかりで定位置に戻し、一息つく。本当にごめんなさい、と沼田に念を押され、俺はよくわからない気持ちになってしまって、そのときなぜか吹き出してしまった。今思い返すとどこにも笑ってしまうような要素はなかったのだが、ともかく俺はその時に吹き出してしまったのだ。そんな様子の俺を見て、沼田も最初はきょとんとしていたのだが、つられてしまったのか少しずつ笑い始めた。せまいホール内に男女の笑い声が小さくこもる。「酢飯の絨毯初めて見たな」「星みたいに綺麗でしたね」。バカみたいなこと言い合ったのを覚えている。

しかし、ここからが問題だった。雰囲気が一旦落ち着いてから、機械のボタンを押す。しかし、ガガガッっと変な音が鳴るだけで全く米の塊を産まない。電源を確認し、あちこち機械を殴って再挑戦するが、復活する気配は微塵もない。嫌な空気を読み取ったのか、沼田が心配そうにこちらを見る。俺のシフトはとっくに過ぎていたのだが、朝頃は来客が少なく、店には俺と沼田と、レジのもう一人のバイト三人しかいない。客の群れが押し寄せてくる昼にはもう少しバイトが増えるのだが。機械が壊れたままでここを沼田一人には任せられないし、早急に目の前の機械を動かさなくてはならない。調理を沼田に任し、機械の前、試行錯誤した。あちこち見て回った結果、中で米が逆流して詰まっていたと原因を突き止めた。しかし正解まで来るのにかなりの時間をかけてしまっていた。詰まっていた米をやっとのことで抜き、機械が正常に動くのを確認した後、沼田にもうミスをするなよと念を押し、調理場を飛び出した。手早く作業着を脱ぎ、畳む間も惜しんで店を出た。

俺が急いでいるのには訳があった。このバイト後、通っている大学では授業があり、その内容は実験実習なのだ。基本的に実験実習は再履修が効かず、ミスを冒すと、一発で留年なんてこともあり得る。つまるところ理系大学での実験欠席は死を意味するのだ。時計を見ると、開始まで残り30分、ギリギリ間に合う時間だ。駅の階段を駆け下り、改札に入る。途端ピーっと音が鳴る。Suicaの残額だ。イライラを抑えながらチャージする。横目に過ぎていく電車が見える。イライラはさらに募る。ホームに入ると電光掲示板には5分後の時刻の表示、この時点で3分以上の遅刻が確定する。そわそわして落ち着かないので、俺はスマホを開いたりはせず、ただただ美麗なデザインの広告を睨みつけて電車を待った。しばらくして広告の女がこちらをバカにしているような顔に見え始めたとき、ホームにアナウンスがなる。アナウンス?事態を察してゾっと背中に悪寒が走る。アナウンス内容は勿論、電車の遅延報告、人身事故らしい。また誰かが死んだのか。遅れは20分。全身から嫌な汗がじんわり出てくるのを感じた。大幅な遅刻が確定した。高鳴った鼓動を落ち着けようと、椅子に座り、スマホを開いた。じ、時間はいっぱいできたんだ。血走った目で、違法ダウンロードした少年漫画を読んだ。

実験室で担当者とひどく揉め、結局その日の実験は欠席扱いとなった。中では時間に間に合った他学生がよくわからない液体とよくわからない液体を混ぜている。激高した俺の様子を憐れむような眼でこちらを見るやつもちらほらいた。5,6分もしないうちに担当者に口論を打ち切られ、俺は実験室を追い出された。ピシャリとドアが閉められた。心臓が痛かった。そのドアに挟まれたかのように感じた。疲弊した精神を落ち着けようとドアの前に座り込む。ふと、そばに小瓶が落ちているのに目が止まる。茶色の瓶で白いキャップ、小汚いラベルが貼ってある。多分、今回の実験の備品かなんかだろう。俺は大学側が困ればいいという純粋な気持ちでそれをくすね、大学を後にした。

外に出ると恐ろしいほど腹がたち始めた。実験をするはずの空っぽになった時間を公園の腐りかけの木製ベンチの上で15分ほど消化したのだが、なんだか気持ちが悪く、気が狂いそうになった。午後にもバイトがあり、それまでに結構な時間があったのだが、俺はオーナーに連絡をし、その日のシフトの時間を早める許可をもらい、某回転寿司店へと歩を進めた。早く無心で手を動かして、心臓に汚水がまとわりついたようなこの気持ち悪い感じを消し飛ばしたかったのだ。

寿司屋についてもイライラは醒めない。満面の笑みで挨拶してくる無能オーナーをひきつった笑顔でパス、更衣室に入る。すでに魚の臭いが染みついている作業着に着替える。荷物を軽く整理しているとき、鞄の中に小さな小瓶があることに気付く。そういえば、大学からこんなものくすねてきたな。ここにくるまですっかり忘れていた。別に必要なものでもなんでもない。何気なくゴミ箱に捨てようとしたとき、瓶の側にこびりつくように付いた黄ばんだラベルが目に留まる。よくよく見てみると、そこには「硫酸」の文字。劇薬だ。俺は慌てて小瓶を作業着のポケットに滑り込ませ、あたりをキョロキョロと見渡した。幸い、だれもいない。確か、こういった劇薬を持ち歩くことは法に触れるんじゃなかったっけ。しかし、よくもこんなものを鞄に入れて持ち歩いていたものだと思う。何かの拍子で空いてしまっていたら…、俺は身震いした。オーナーがマスターキーを持っているこのセキュリティガバガバなロッカーにこの劇薬をしまっておくのは気が引け、そのまま作業着のポッケに入れておくことにした。

飲食禁止

図書館にいる。ここは大学の学生図書館で基本「飲食は禁止」だ。

僕は椅子が4つ付いた大きめの机の椅子の1つに座っていて、この駄文を書いている。対角には綺麗な女、真っ赤な口紅と茶髪がチャーミングだ、オレンジのベレー帽は図書館の中でも脱がないらしい。

さて、人間が文字を書き始めるにはいつも動機がある。授業中の生徒は学習のため、主婦は家計簿をつけるため。さて、今回の僕の場合は忘れずにメモを取っておくためだ、この状況、今にも脳の先から突き抜けていって、淡く図書館の静かな空気の中に溶けていってしまいそうだ。

先ほど緊急アナウンスがあった。ちょっぴり元気な女の声だった。人気はないが、無駄に元気な地方アナウンサーみたいな。内容は実験が始まるとかなんとか。僕はスマホの漫画に夢中だったからほとんど聞いていない。ただ、対角の女がアナウンスを聞いてみるみる青ざめていくのを見た。それも尋常じゃないほどに。今の彼女の机にある六法辞典はその時の涙とよだれでびちゃびちゃだ。彼女は今、美しいほどにきれいに反り返り、白目をむいて失神している。

うーん。やっぱりアナウンスが終わってから何かがおかしい。向こうのソファに座っている男がDeNA快勝と表紙にある新聞を丁寧にちぎって食べている。これも変だ。

でも待てよ。彼、変に見えるが、もしかしたらアナウンス前からやっていたかもしれない。僕はアナウンス前の彼を確認してはいない。もともと定期的にこの図書館に来て、新聞紙を食っているかもしれない。それで何度か司書とトラブルがあって、今日もその腹いせで食べているとか。そうだな、よく考えたらアナウンスとの関係性はほとんどないじゃないか。アナウンスのお姉さんを疑ってしまってなんだか申し訳なくなってきたな。

でも待てよ。よく考えたらここは「飲食禁止」じゃないか。そしてあいつは確かに新聞紙を食っている。危ない危ない、謎のアナウンスで思考がおかしくなってしまうところだった。あの男は確実にルールを破っている。少し注意してくることにする。

――

少し話しかけただけなのに指を噛まれてしまった。なんて野蛮な奴なんだろう。なんだかむしゃくしゃしてきたな。いつもこうやって理不尽な目にあっている気がする。

......

対角の女、結構美人だし、机の上の涙とよだれ、少しもらうことにするか。うん、それでこの気が晴れる気がしてきたぞ。

…….

女とキスなんてしたことないからなんかワクワクしてきたな。まあよだれをもらうことがキスかどうかはよくわからないけど。まあ、行ってくるか。

――

さて、女の体液が机の上に大きな水たまりを作っているのだが、それを少し舐めてきた。別に何かの味がしたわけでもないが、この行為自体なんか癖になりそうだな。

あっ、そういえば、ここは「飲食禁止」だった。しまったな、女のよだれを飲んでしまった。俺はあの新聞の男を注意できるほど高尚じゃなかったってわけか。お高くとまりやがって、俺。

あれ?さっきまで僕って書いてたのに、なんでだろ。まあ、いいか。

……

なんだか嫌な気分になってきたな、漫画の続きでも読もうか。

――

アナウンスの内容

「本日は9時に閉館となります。荷物をお忘れにならないようお気を付けください。また、図書館は今日で営業を終えます。長い間、お世話になりました。」

食べられなかった新聞記事の破片 一部

「郎容疑者(46)は依然否認を続」

「は法案を撤回し」

「ンタの神様―インパルス堤」

「代は変わりつつあるとバイオリ」

――

女は起きて顔を真っ赤にして机を拭き始め、男は二部目の新聞に手を出し始めた。少年は漫画が可笑しくて吹き出してしまっている。今日、図書館は役目を終える。

■失

私の頭の中で人間が殴り合うことがある。選手は二名、賢く、地位も金もある男と、重度の発達障害で、「あー」と「うー」しか喋れず、ほとんど四肢も動かない男。この二人が手に汗握れる白熱するよい勝負をするのだ。

地方都市の寂れた町の一角にある集合住宅地。茶色いヒビと枯れかけのツタを全身にまとった空き家がゆったりと間隔を空けて立つ。団地の端には一回り背の高い物件がある。二階建てで、壁は白が基調、屋根は黒。中級階級の核家族の庶民が背伸びして買ったような家だ。周りと同じように寂れ、朽ち始めている。二階には子供部屋が二部屋あり、片方は使われた形跡もなくただの物置のような使われ方をしていた。私はその部屋で今、一人の女をリンチしている。ベランダに落ちたセミの死骸の目、ビーズがちりばめられたサンダル、さび付いた物干し竿は寂しい夕空を反射し、オレンジ色に輝いている。半開きになったカーテンの前、壊れたブラウン管のテレビを枕に女はうずくまる。薄暗い部屋の角、女の頭を丸々覆った黄ばんだボロ布が赤黒い血で滲んでいるのが見える。苦しそうな女のうめき声、遠くで聞こえるカラスの鳴き声が優しく私の鼓膜を撫でる。私は力強く右手に持っていた108円の青いプラスチック製のリコーダーを強く、握りなおした。リコーダーを伝う血が親指の爪先に流れ、静かに床に落ちる。気が付くと、女の震えは止まっていた。私はまた“失敗”してしまった。

■不

自宅には猫がいる。名前はフノちゃん。凛々しい顔、ピンと立った耳、綺麗な茶色の毛並みが特徴だ。また、フノちゃんには足と歯がない。足は付け根からから4本とも無くなっていて、全体を見ると、まるで丸太にネコの頭と尻尾だけを付けたような滑稽な姿をしている。あくびで大口を開ければ歯の抜けたピンク色の幼い歯茎を湿らせた唾液が光を反射してきらめく。私が家の扉を開くとフノちゃんはいつも、嬉しそうに体を揺らして扉に近付いてくる。ころころと室内を転がる姿は本当に愛くるしい。首元を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める。怒ったときは怖い顔で、けれどもぷにぷにした歯茎で僕の指を懸命に挟み込む。猫じゃらしのおもちゃで遊んでやると、首を伸ばして噛み付こうとする。青いリコーダーで簡単な曲を吹いてやると気持ちよさそうに聞いてくれる。私はそんなフノちゃんの挙動一つ一つが大好きだ。フノちゃんは僕の中の乾きひび割れた“何か”に潤いをもたらしてくれる。

フノちゃんはもとは捨て猫だった。あの日、私は“失敗“したハトを埋めに重い足取りで山を歩いていた。雨の強い日だった。紺色のかっぱにペンキの汚れのついた長靴をはき、右手にはハトの死体を入れた少し臭いのする黒いビニール袋、左手には柄の欠けたシャベルを握り、雨水でぬかるんだ土を登っていた。獣道を逸れ、草木をかき分けて進む。泥水の上に枯れ葉が浮かぶ。視界を雨粒が塞ぐ。右目を引っ込めたナメクジが、気持ちよさそうに雨で黒く塗れたコンクリ片の上を這う。

獣道がぼんやりと見えなくなるところまで来ると、シャベルを地面に突きたてる。濡れたシャベルがいつもより重く感じた。雨の重さか、それとも命の重さか。私は8分程かけて50㎝程の深さの穴を掘り、ハトの死骸を優しく底に置いた。穴の奥でハトは真っ黒な眼孔でグレーの雨空を見上げていた。眼孔に滴る雨水のせいで少し泣いているようにも見えた。切断された翼と足の断面には小さな白いウジがワラワラとうごめいていた。土をかけていくと、次第にハトの姿がどんどん無くなっていく。その光景はより一層私の胸をきつく絞めつけた。

一通り作業を終えると、私は心身ともに疲弊してしまっていた。足早に獣道に戻ると、雨で湿ったボロボロの段ボールが見えた。上面には濡れてうねったA4の張り紙、文言は“ごめんなさい”とあった。気が付くと私は張り紙を剥ぎ、中を見ていた。中には衰弱した小さな猫、木馬をそのまま横向きに倒したような恰好で四肢をピンと張り、じっと動かないでいた。毛並みはボサボサでしっとり濡れていた。僕は、この猫を“成功”させて、ハトにしてしまった愚行の罪悪感を散らしてしまいたかったのだと思う。ハトの死骸が入っていた袋に、生きているのか死んでいるのかよくわからないこの猫を無造作に入れ、駆け足で自宅へと引き返した。帰ってすぐ、温めたミルクを飲ませ、それからは毎日大切に世話をした。

猫の体力が回復したころを見計らって私は家の庭で猫に麻酔を打ち、四肢を全て切断し、歯をすべて抜いてやった。父親の職業柄、庭の倉庫には大きめの斧があって、骨の通った足の切断にもそれほど苦労はしなかった。歯もペンチを使って丁寧に抜いた。ハトの時の反省を活かし、猫の命を刈り取ってしまわないよう、出血量に気を払いながら慎重に作業を行った。猫の4つの足に包帯をきつく巻き、血だらけになった脱脂綿を袋に詰めてすべての工程を終えたとき、私は大きく決心をした。「もう“失敗”はしない。」

猫は自分の足で歩くことも、牙でものを噛み砕いたり、敵に反撃したりすることも、自分じゃ何もできない生命体となった。私は猫に愛をこめて名前を付けた。“何もできない子”フノ(不能)ちゃん。

■夢

高校を中退する前、私は、陸上部に所属していた。黒ずんだ校舎、雑草がまばらに生えた汚いグラウンドできらきら輝く夢を、その足で追っていた。専門は5000mでベストタイムは15分30秒。市では二位を取れるほど速かった。情熱のある顧問と共に全国大会に向け、数えきれないほどの回数、グラウンドの土を蹴った。

私は誰よりも努力した。食事制限から、部活外の練習。日々のリソースのほとんどを陸上競技のために割いた。しかし、いつまで経っても私は弱かった。タイムは上がったものの、他の選手と比べると伸びしろは圧倒的に小さく、私は県の大会に進めないほど落ちぶれていった。

いつだってそうだった。好きなこと、得意なことをみつけて努力しても遥か上から見下ろす奴がいる。何をやったってやつらには勝てない。常軌を逸した才能と圧倒的効率の努力量で虫けらみたく、踏みつぶされる。 努力するしないじゃない、考え方を変える変えないじゃない、ただ、これは、一つの運命に過ぎない。 この劣等感地獄の中から這い出す術はただ一つ。生まれ変わって出直すことだ。神の愛を、天性の才を、全身に受けて。

高校3年の秋、最後の大会で大敗を喫したのち、私は学校に行かなくなった。才能もないのに努力する人間が嫌いになった。テレビや公園で、夢を追いかけ頑張る人間を見ると背筋がゾクゾクするようになった。自らの滑稽な過去を突き付けられ、また敗北者としてのレッテルを貼られなおされたような惨めな気持ちになるのだ。

■虫

煮えたぎる湯から糸をより合わせる。綺麗な蚕の白い糸である。繭の中からは成虫になりきれず、茹で上がってしまったカイコガが小さく畳まれて出てくる。私はこの作業をする時、必ず一匹一匹カイコガの顔をしっかりと見る。蚕は例外なく皆、幸せそうな顔をしているのだ。私は彼らが心底うらやましい。

生物の使命は子孫を残すこと。しかし脳を不必要に巨大化させた動物は精神や心を持ち始める。性欲を歪曲させて誕生した自我は子孫を残すことを傍らに置き、他人の承認や生きる意味を求め、幸不幸という虚構の概念の中を行ったり来たりしている。

日本で伝統的に行われてきた養蚕業ではただひたすらに蚕に桑の葉を与える。蚕は不思議な力で降ってくる餌を毎日食らい、肥えた後に、大きな繭を作る。これらの繭のうちほとんどは羽化する前に蛹のまま釜で茹で上げられ、糸が紡がれ、生糸となる。成虫になれなかった蚕の本体は飼料になり、畑の肥料や家畜の餌などに利用される。また、繭のうち何匹かは繁殖用として羽化を許される。繭を突き破って出てくるのは大きな白い羽根と黒く澄んだ瞳を持つ美しい蛾。彼らには飛翔能力がない。

養蚕業は紀元前3000年より前、つまりは今から約5000年も前から、中国で行われていた。その後日本に伝来し、主要産業となるまでに発展するのだが、この長い歴史の過程で蚕は完全に家畜化される。膨大な量の糸を吐く太った個体のみ優先され、飼育され続けた結果、彼らは飛ぶことができなくなった。飛ぶことが必要でなくなった、という言い方の方が正しい。彼らはもう二度と、5000年前のように大きく羽根を羽ばたかせ、月夜を飛び回ることはない、飛び回る必要がないのだ。

一部の人間はこれを家畜化による退化と呼ぶが、私はそうは思わない、これは紛れもなく進化である。蚕は人間に飼われ、その監視下で繁殖することを生物全体で選択したのだ。飛翔能力を犠牲にし、より多量の糸を吐くことを選んだのだ。環境に即した、戦略に優れた素晴らしい進化である。

蚕の一生、それは争いのない、能力の優劣のない暗い箱の中で、葉を食らい、繭になり、最後には湯でじっくりと溶かされる。そこには優も劣もない。ただ、裏切らない飼育者が天にいるだけである。家畜でいるかぎり、その時代に合っている限り、彼らは自由で、特別で、幸福なのだ。

私は、現代で時代に適用し、幸福に過ごせる人間は二種類いると考えている。一つは有能、もう一つは無能である。 どちらも他と一線を画すほど振り切ってなくてはならない。

義務教育で教わる人間の美徳は、懸命に努力し、人類のために何かを成すことである。人類の生活の質の向上から、手に汗に握るスポーツの発展。しかしなぜか我々は能力を付けるたび、苦しくなっていく。○○大学をでたのだからこれぐらいできて当然だ。高校時代○○をやっていたのなら、これぐらいのストレスには耐えうるだろう。自らを楽にするために高めた能力が、当然果たすべき義務となって自身に襲い掛かってくる。国が発展すればするほどこういった義務は巨大化し、その重さに耐えきれなくなった人間はその手で自身の命を絶つ。または不幸な世の愚痴をあたりに垂れ流しながら惨めな人生を終える。幸福で笑っていられるのは自らの人生をしっかり設計した有能な人間のみだ。

全く無能な人間はこれらを超越した位置に立つことができる。特に1,2級の神経系の障がい者手帳を持つものである。健常者の税金で生活しても特に文句は言われない。支援センターのお姉さんに欲情して、突然マラを掻きだしても咎められることもない。誰も文句は言わない、無能を憐れみ、支援をする。見返りとして彼らは無能を支えてやっているという優越感を得る。中途半端な障がいを持つものにとってそれは耐え難い劣等感になる可能性があるが、1,2級の神経系の障がい者手帳を持つものはそれらを感じることもなく、生きることができる。自身の心を傷つけることなく、人の承認欲を無限に満たしてやることができるのだ。

彼らは蚕のように生きている。国の補償金や手厚い介護は桑の葉として与えられ、介護者や身の回りの人間は承認欲の充足を生糸として受け取る。争いの概念も存在しない。

私は努力や争いをしない彼らを見下しているわけではない。むしろその逆だ。彼らは一般人を超越した存在なのだ。不幸になる概念が薄く、全く異なった視点から物事を見、感じている、楽園で過ごすことができている彼らが心の底からうらやましいのだ。同情や憐みを周りから受ける能力に長けた彼らを心の底から尊敬しているのだ。

蚕の世界ではより多くの糸を吐ける個体が偉い。 小学校の朝礼では一番大きい声であいさつする奴が偉い。 王将の厨房では餃子を一番早く焼けるやつが偉い。 これと同じで手厚い保障のある先進国では振り切った有能と無能が偉いのである。

その日も私は繁殖用の繭をいくつか選んで箱に戻した。丸々と太った繭は何とも幸せそうで観察者の私も心躍った。

■貢

私は公園のハトに餌を与えることがある。ろくな友人がおらず、乾きに乾いた承認欲をハトで潤している。俺が餌をやるからお前らは生きてられる。どうだ、うれしいだろ、と。

私が通う公園のハトの群れの中には餌にありつけない小さな個体がいる。頭が白毛のその子は、私が餌を放る度、大きなハトに追い回され、散々に突かれる。

私はいつの間にかその小さなハトを陸上の選手だった頃の私に重ねていた。あの小さなハトは絶対に勝てない大きな体のハトに一生周りを付きまとわれるだろう。彼らにびくびく怯え、隠れて餌をついばみ、惨めに瘦せ細り、生涯を終えるだろう。どんな努力を重ねようとも、それが運命、運命なのだ。

私は蚕に成れない。でも他のものを私の蚕にしてやることはできる。私はその小さなハトを捕まえ、自宅に連れ帰った。ハトを進化させ、幸福にするために、ハトから私が生糸を得るために。

■忘

空き家の女は死んでしまっていた。彼女を幸福にすることも、彼女から生糸を得る事も、遂にはできなかった。私は血に染まった青のリコーダーを床に叩きつけ、強く息を吐き、黒ずんだ子供用のベッドに腰を下ろした。舞い上がったホコリが夕焼けに照らされて、ほのかに輝いている。私は頭を抱え、うなだれ、ため息を吐いた。

また、頭の中で健康体の男と、重度の発達障害で、四肢の動かない男が殴り合いを始めた。一方的に殴っていた健康体の男はしばらくして周りの健常者に取り押さえられ、大勢から暴言を浴びながら、リンチを受けている。イかれ頭の四肢不随男は争いから遠い安全なところ、車いすに座り、凝り固まった顔面の筋肉を震わせて嬉しそうに笑っていた。

不平不満の部屋

Kは知に貪欲だった。幼少の頃からその生活のリソースをほとんど自身の知の集約に注いできた。しかし、興味のあることにしか手を出さないため、妙に偏った知識を得ていった。

またKは野心家でもあった。いつか自分の力で世界を一変させるような開発を成功させたいと目論んでいた。しかし、材料となるアイデアはいつまでたっても浮かばない。要望を実現させる手法、技術ばかりが身に付き、肝心の発明の源を見つけられずにいた。

そんな中、Kの友人であり、発明者であるSが人の顔面の精巧な複製を作り、名を挙げた。Kはしばらく嫉妬に狂っていたが、心が落ち着くと、Sに会いに行き、その成功の起源を聞き出した。Sは自分の成功談を謙遜しながらも詳しく説明した。まとめると以下のようなことだった。

「人間の生活の中の何気ない一言、その全ては無価値ではなくアイデアの原石がばらまかれている。」

Sはただただ、今回の成功は身の回りの人間の声に耳を傾け続けた結果だったと語った。

Kはこのアドバイスで気付かされた。『自分には友人が少なく、人と話す機会も少ないがためにアイデアを得る事ができなかったのだ』と。

そしてKは人間の声を聞くためにSNSを張り込んだ。膨大な数の人間が匿名、または実名でそれこそ多種多様な種類の発言をしていた。しかし、その中の発言には求めている“不平不満”がほとんど含まれていなかった。それを解消するのが発明だというのに。Kは頭が痛くなってしまって、SNSから知見を得る事は諦めた。

次にKは人の発言から“不平不満”のみを抽出する手法をあれこれと考え、ついに、一つだけ閃くことに成功した。

Kは太陽光充電式のマイクを大量に作り、そのマイクに入れられた声は全て自宅にある倉庫に集められるよう設計した。彼はその倉庫の名前を“不平不満の部屋”とした。

そしてKは街中を歩く人に「不平不満があったらここに呟いてくれ」と言い、作ったマイクを配ってまわった。

さて、Kはアイデアを得るためにこれを作ったのだが、このマイク自体、「怒りをぶつけることができて、ストレスを発散できる」として人気が出始めた。

資金援助を大量に受けたKはこのマイクの商品化に尽力した。結果、飛ぶように売れ、1000万個以上の売り上げに成功した、Kはたくさんの富と名声を得た。

Kは発明の主目的だった“不平不満”の声には一切耳を傾けなかった。彼は生来、人間の何気ない声などに興味はなかったのだ。

そんなある日、SがKのもとにやってきた。互いに互いの成功を称え合い、談笑した。ふと話の流れでSはKに“不平不満の部屋”を見せてほしいと頼んだ。Kはまったく構わないと言って、Sを部屋に案内した。

“不平不満の部屋”は広さ一畳ほどの狭い防音部屋だった。Kは「一度も入ったことはないが、音声は垂れ流しだ」と言い、Sはそれに対して笑った。

Sは「世間の不平不満にいささか興味がある」と言い、一人、“不平不満の部屋”に入っていった。Kは『もの好きだな』などと思いながら、リビングへと戻り、学術誌を読みふけった。

2時間ほど経っただろうか、いつまでたっても出てこないSに対し、Kはしびれを切らした。“不平不満の部屋”へ行き、中へ声をかける。Kは普段出さないような大声を出したつもりだったのだが、中から返事はない。不穏に思ったKはあることに気が付いた。この部屋はもともと倉庫で、内側から開ける事ができないのだ。つまり、Sは2時間近く、この部屋の中に閉じ込められていたことになる。KはSに対して、罪悪感を覚えながらもゆっくりと“不平不満の部屋”を開けた。

Sは部屋の中心できちんと足を折りたたんで正座していた。軽く白目をむき、爪を食い込ませるように硬く握った拳を膝の上で震わせ、フーッ、フーッと強く息を吐いていた。涙、鼻水、よだれが顔全体と襟のあたりを湿らせている。耳の周りには幾重にも引っ掻き回した跡があり、赤黒い血が流れていた。部屋全体が異様な雰囲気に包まれていた。四方八方からマイクに入れられた暴言、叫び声、泣き声が飛び交い、部屋全体に反響していた。Sの口元がもぞもぞと動いている。何かを呟いているようだが、部屋の音でほとんどかき消されてしまっている。

Kは眼前の惨状に対し、唖然としていたが、ふと我に返り、Sの元へと駆け寄った。途端、耳に暴言が舞い込む。「税金死ね!!」KはSの肩を揺すってみる。反応はない。「なんでA子ちゃんヤらせてくれないの!!」Sを担ごうとするが、思ったよりも重く、うまく担げない。「T先生はクソ、家族全員薬物中毒だ」とりあえず、まずは音声を切ろうと部屋の中を探す。「股開きJDにしか単位をやらないクソ教授股間もげろ!!」しかし、部屋を作ったのが昔すぎてスイッチの場所が思い出せない。「俺より学歴低いくせに威張んな」学歴だけで人は判断するものじゃないが、スイッチはどこだろう。「赤ちゃん、なんで夜に泣くのよ」泣くのが赤ん坊の仕事というものだ。スイッチ、スイッチ…。「なんで発売延期なんだよ、死ね」それは確かに企業側が悪いのかもな。しかし、そういった、経営戦略もあったし…。確か、スピーカーの後ろにあったはず。「もうなにやってもうまくいかない」わかる、自分も失敗ばかりだった、スイッチばかりだった。「誰も認めてくれない」僕もそういう時期もあったし、はやくSをなんとかしないと。「犬の世話めんどい、捨てたい」命は大事にSも大事にしたいな。「なんで私よりブスなのに彼氏いるの」顔だけで判断すんな心ブス。「ガキがうざい、家から追い出したい」親としての責任果たせカス。「死にたい」ああ、じゃあ死ね、死ね!「働きたくない」生活援助でも受けて一生底辺生活送ってろ。「才能ないのかな」凡人は言われたことだけやってろ。「私って、….


数日後、行方不明になっていたSとKが狂人状態で見つかる。二人ともまともに口がきけない状態で施設に送られることになった。 そして、Kの発明した“不平不満の部屋”は“精神崩壊の部屋”と名を変え、日本中に知れ渡ることになった。

顔-3

引用元不明:“心の底から、本気で、自分から乖離した全く別の何者かになりたいと切に願うほど、親不孝なことはない“

僕の席は教室の後ろの方にある。私語の絶えない騒がしい授業の中、今日もいつも通りぼーっと黒板を見ていた。しかし、ふと気が付くと、僕は自身が目の焦点を最前列に座る女子の後頭部に合わせていることに気が付いた。きれいな黒髪でよくよく手入れがなされたいつもの後頭部だ。

僕は彼女と中学高校が同じで何回もクラスが一緒になったことがある。彼女とほとんどしゃべったことはないが、僕はいろんな場面で気を抜くたびに彼女を自然と目で追っていた。彼女は別段かわいいわけでもない。ただ、たぶん僕にしか理解できないような独特な愛嬌があって、その一挙手一投足が僕の心を揺さぶるのだ。遠くから彼女の屈託ない笑顔を見るたびに僕の心も癒されていた。

僕は中学高校の数年間、その思いを伝える機会も勇気もなく、ずっと胸の内にしまっていた。もともと異性との会話は得意ではなかったし、本当の醜い顔がばれてしまうような恐怖も感じていた。

家に帰るとまた彼女のことを思い出していた。ここ最近は特にひどい、彼女は意識せずともふっと頭の中に現れ、僕の脳のありとあらゆる部分を彼女色に染めてしまうのだ。

そんな中で僕の中である欲望が生まれていた。

「彼女と楽しく言葉を交わしてみたい」

この欲を満たすために僕は自分の強みを活かすことにした。自室のタンスの奥の奥から例のマスクを取り出す。胡散臭い医者からもらった美少年マスク、僕は、おそるおそるそれをかぶってみた。

鏡の前で自分の顔を見てみると、なるほど確かに別人だった。目も鼻も唇も元の顔とは比べ物にならないほど整っている。「あ、い、う、え、お」などと声を出してみたり、口角を上げて笑ってみたりした。表情が豊かで好印象な美少年だな、と他人事のように思えた。覆面には何らおかしい部分はなく、ほとんど違和感なく動いた。

見た目以外にも顕著な変化が表れていた。整った自分の外見を見つめていると、匿名感を基盤とした自信、それが心の中のあらゆる壁からにじみ出るように立ち現れてくる。僕はなんだか自分が恵まれた人間であるように感じ始めていた。

時計を確認する。ちょうど、彼女が部活から帰る時刻だ。僕は母にバレないよう物音をできるだけ押し殺して外出した。

自分は今、イケメンだから彼女に話しかけることができるはずだ。イケメンはそういうことをしても不自然ではないし、そういう権利がある。僕は異様な自信感を保ちながら、彼女の帰り道を練り歩いた。

本当の本当に別人のようだ。僕は自分の歩く姿勢でさえも従来とは異なっていることを身にしみて感じていた。普段使わない筋肉を使って無意識に歩いているような感覚。不思議だった。演じる気はなくても、僕はこの美少年を“演じて”しまうのだ。

ガードレールに座り、イケメンがしそうな足の組み方をし、スマホをつついていると、前の方からついにターゲットがやってくる。僕は一瞬たじろいだが、(自分はナンパ師だ!!)と強く自己暗示をかけ、静かに呼吸を整えた。彼女の足音が近づいてくる。心臓がバクバクとペースを上げて打ち出すのを感じる。彼女がこちらをちらっと見たのが見えた。整えたはずの呼吸が荒くなっていくのを感じる。彼女の足音が大音量になって頭に響いてくる。パニックになりそうなのを抑えながら、短い呼吸で息と心拍を整える。そして…

彼女が目の前を通りかかる。

彼女が目の前を通る。

彼女は遠くへ去っていく。

全て、全ての貴重なあの時間、あの一瞬、僕は全く声が出せなかった。思い知らされた、美少年、つまりは別人になれるアイテムを使ってもなお、異性に話しかけられないほど自分は勇気がないのである。僕は自分の身の振り方の矮小さに落胆し、両手で顔を覆った。大粒の涙が指の間から溢れる。「チクショウ…チクショウ…」

「大丈夫ですか?」

ぐるぐると後悔と自責が渦巻く中、突然声がかけられる。僕は半ばびっくりしながら、顔から両手をのけ、涙を袖で適当に拭い、前を見た。心配そうにこちらをのぞき込む彼女が立っていた。

「なんか嫌なこととかあったんですか?」

僕は突然の状況に慌てふためいてしまって、何も言葉が出てこなかった。言い訳、嘘、そういった類の言葉を頭の中でたくさん生産する。しかし、口から出せるものは何も生まれない。行き詰まり、びくついていると、

「向こうで話聞きますよ。私も今日嫌なことがあって…。こういうのって、知らない人に打ち明けるのが一番だと思うんです。」

彼女に連れられ、僕はいつの間にかファミリーマートの前で彼女とアイスを食べていた。僕はバニラのカップアイス、彼女は片手にスイカのアイスバーを持っていた。コンビニの前に他に人はいない。半分死んだセミが焼けるように熱いアスファルトの上から見透かしたような目でこちらを睨んでいた。


彼女の悩みは些細なことだった。所属している陸上部の顧問が精神的に攻撃をかけてくるらしいとのことだった。僕は終始、自分のできる最大限の愛想を出力し、自分の学校の事情をまるで一つも知らないかのように答えた。

そして恐れていた質問がやってくる

「さっきはどうして泣いていたんですか?」

僕は彼女の悩み相談に乗っている間に練りに練っておいたホラ話を繰り出した。美少年である自分に相応しい悲劇。彼女有りが前提のイケメンの悲劇。

「彼女に振られた、それだけなんだ」

「そうだったんですか…。」彼女は小さく相槌をうつ。

どんよりとした空気になり、廃れたコンビニの前に沈黙が生まれる。


「彼女、どんな人だったんですか?」

「んー、別段かわいいわけでもなかったよ。ただ、僕にしか理解できないような独特な愛嬌があって、その一挙手一投足が僕の心を揺さぶるんだ」

「お付き合いされてた人のこと、大好きだったんですね。ものすごくかっこいいから結構遊んでる人だと思ってました。」

「はは、僕ってそんな風に見えるかな?」

「見えますよ。私は美男美女はみんな遊んでるって偏見持ってるくらいですから。実際のところどうなんですか?その甘い顔を活かして結構楽しんでたりするんですか?」

「ま、まあ、誘われちゃうとどうしてもね」

これは、イケメンらしい受け答えなのだろうか。

「わー、絶対すごく遊んでるクチですねー、これは。」

「…。」

「やばかった女話とかあったりします?メンヘラ女話とか。」

「…。」

僕は返す言葉もなく黙ってしまった。そして彼女から重い重い一言が放たれる。

「それか…私とも遊んでみませんか?」

僕は一瞬わけがわからなくなった。それは”あれ”を意味しているのだろうか。

「それって…そういうこと?」

「そういうこと、ですよ?」

「あー、ト、トイレ、トイレ、行っていい?」

「え?はい、どうぞ」

僕は速足でコンビニのトイレに駆け込んだ。突然起きた出来事に困惑する。「遊ぶ」とはきっとドエロいことなんだろう。僕はトイレの蓋を閉め、その上にそっと座ると、一流のナンパ師なら知っているであろう情報を片っ端からスマホで調べ上げた。「近くのラブホテル」「性行為の極意」「正しい避妊」。便利な時代でよかった。

どれもこれも昔に知っておかなくてはと興味本位で見たサイトばかりであった。そのときはどこか夢心地で別世界のことだとでも思っていたのだろう。

今、このサイトは不気味なほどに現実味を帯びている。まるで別のサイトのようだ。読む僕も別人のように血眼になって見ている。僕は最後までイケメンを演じきれるのだろうか。

情報を頭に叩き込んでトイレを出る。コンビニで飲み物と避妊具を買い、呼吸を整えて外に出る。出迎えてくれた彼女はごく自然に僕の手を握った。何が起きているのか全く理解できず、頭がおかしくなりそうだった。


高校生のわずかな小遣いでも足りると判断したこじんまりとした格安ラブホテルに着く。他の老夫婦が出てくる。僕はサッと顔を伏せた。彼女は堂々と前を歩く。

中に入り、無人の受付に戸惑っていると、彼女は慣れた手つきで部屋番号を選んだ。エレベーターのボタンも、部屋までのルートも、入室のカード操作も、全て彼女にやってもらった。僕はもはやイケメンとよべる存在ではなくなってしまっていた。

部屋の中は不思議な雰囲気だった。薄暗い照明がベッドを中心に照らしており、作り物の苗木がその光を淡く反射していた。靴を脱いで上がる。大きな洗面台には馬鹿でかい鏡があり、前にはシャンプー、リンス、歯磨きセット、ワックスが几帳面に整理されてあった。広いバスルームには大きなジャグジー、床は大理石チックで高級感をまとっていた。あちこち見て回る僕に対して彼女は呆れたように

「初めて来たんですか?」

と疑わしそうに聞いた。

それからは初めての連続だった。とろけるような甘い体験だった。きっと、一生忘れることはないと思う。


退室の時間になり、僕はそそくさと服を着た。彼女は僕を相手にした感想をずっと語っている。僕には恥ずかしくて言えないような言葉をなんの躊躇もなく吐き出す彼女。僕の中にあった彼女は清楚で可憐ではなくなってしまった、そのかわりに劣情を煽る魅力的な存在に姿を変えていた。

ホテルを出た後もしばらくは二人で歩いた。会話は僕が相槌を打つだけになっていた。別れ際、

「そんなに遊んでなかったみたいだったね、まあそれはそれですごくよかったかも。また遊ぼうね。いろいろ教えたげるよ。」

彼女はそう言い残し、僕に電話番号を伝えると、足早に去っていた。

彼女の後姿を見る。暗闇の街灯にほんのりと照らされた黒いスカートがひらひらと揺れている。僕はその布切れの動きにくぎ付けになっていた。

続く 5本立てになりそうです。

おまけ

114514年度 センター試験 国語

問1.「一挙手一投足」の意味は次のうちどれか

① ちょっとした努力。わずかな骨折り。

② こまかな一つ一つの動作や行動。

③ 四肢を含む手足の動き。

④ 努力して目標を達成すること、またはその過程。

問2.最後の発言で彼女が敬語をやめた理由として考えられるものは以下のうちどれか。

① 初めは年上だと思っていたが、ラブホテル内での会話で「僕」が同い年だと気付いたため。

② 初めは年上だと思っていたが、ラブホテル内での「僕」の挙動が自分より幼稚に感じたため。

③ 初めて会う人には敬語を使うのは当然で、ラブホテル内で十分仲が深まったので打ち解けようとお堅い敬語をやめた。

④ 年上だと思っていて敬語を使っていたが、ラブホテルで共に過ごすことによって気がぬけてしまって敬語をやめてしまった。

問3.最後の行で「僕」が彼女のスカートにくぎ付けになっていた理由は以下のうちどれか。

① ラブホテルで服を着たときに彼女のスカートがずれていて、そのままになっていたから。

② ラブホテルでの行為の後、彼女の存在が「僕」の劣情を煽る象徴となったため。

③ ラブホテルでの行為の後、彼女の清楚で可憐なイメージがスカートのひらひらで現れていたため。

④ ラブホテルでの行為の後、街灯が照らす彼女のスカートが妖艶に見えたため。

顔-2

真夏の強い日差しが照り付ける中、僕は待ち合わせの店へ向かっていた。騒がしいセミの鳴き声が胸の高揚感を高めていく。僕の顔の製造者、いったいどんなひとなのだろう。

子洒落たアメリカン風の喫茶店の戸を開ける。心地よいクーラーの風が戸の間から吹き出し、汗で熱く湿った皮膚を撫でながら外の熱気と混ざり合う。店内は黒色の木材を基調とした内装で、1,2世紀前かのアメリカの古臭いポスターが所々に貼られている。そして、スピーカーからはお洒落なジャズミュージックが流れている。無論、曲名は知らない。

ふと、奥の方に目をやると、サングラスにマスク、カウボーイハットをかぶった怪しげな男が大仰に手を振っている。僕は暑さで緩んだ顔の筋肉をキュッと引き締め、男の前へと座った。

「やあ、○○くん。君は覚えていないだろうけど、ひさしぶり、だね」

「なんか、飲むだろう?飲まないと追い出されちゃうからね。飲み物は…この甘いやつにしようか。僕?僕も同じ甘いやつを飲むよ、苦いコーヒーは苦手だからね。よし、このなんとかフラペチーノにしよう。」

男は一人言のように次々と喋ると、呼び出しベルには目もくれず、大声で店員に注文を頼んだ。店員はどぎまぎしながら大声で「か、かしこまりましたぁーー!!」と返す。横に座っていたカップルの不愛想な女の方が不機嫌そうにこちらを睨んでいるのが見える。

「さて、と。今日は君にお願い事があって呼んだんだったね。」

「何を隠そう、頼み事は君の顔についてだ。15年も前だったかな、僕は君の顔を作ったとき、すごい反響をもらったんだ。年を取る覆面なんてあの時代、誰も作ることなんてできなかったからね。アイデア自体、凡人には浮かびもしなかったはずだ。新聞には『天才医師!顔に命を吹き込む!』なんて記事が載っちゃったりしてね、あちらこちらに呼ばれて講演したさ。」

「おっ、なんとかフラペチーノが来たぞ、外は暑かったろう、遠慮せず飲んでくれ。」

男はそう言うと、自分の分のなんとかフラペチーノとやらをとてつもない勢いで吸い出した。「ズズッ、ズズゾッゾ」という音があたりに汚らしく響く。横の女はまたこちらを睨んでいる。10秒ほどで容器を空にすると、また男は話し始めた。

「さて、君の顔、ただの人工物ではないことは気付いているよね?」

「ここからは…。きちんと聞いてほしいんだが、君の顔には”素材を提供してくれた”人がいてね。たしか高橋亮太とかいう子だったかな。君と同じ日に生まれて、その日に死んでしまったんだよ。」

「ほら、覆面が年を取るとかいうすごい芸当がローコストでできるはずがないだろ?君は今まで、自分のかぶっている顔が誰のものなのか考えたことはあったのかな?」

「君は君じゃないんだよ、その顔は高橋亮太であって、けっして君ではない。」

男は真剣な表情でこちらを見つめる。横にいる女は心配そうにこちらの様子をうかがっている。しかし、そのあとすぐ、張り詰めた空気を壊すように男は大声で笑い始めた。

「ははっ、冗談冗談。脅かして悪かった。その顔は君の細胞から分化させた、正常に生まれた時の顔だよ。ドナーなんて取ったら倫理大好き連中につかまっちまう。マッドサイエンティストには憧れるけど、刑務所は怖いからね。ちゃんとした方法で製造されたものさ。それでもやつらは攻撃してくるけどね」

「さて、ここからが本当の本題。僕は君の顔を作ってから有名になった。だけど、それからの研究成果はまったく振るわなかった。同じような手法で顔を作り出せないんだ。君の時はあれほどうまくいったのが嘘だったみたいにね。」

「で、君に頼みたいことは遺伝情報をもう一回取らせてほしいってこと。それと、顔の成長の度合いの綿密なチェックをさせてほしいってこと。」

「それだけだ。もちろん、ただでとは言わないよ。君の家にそれ相応の報酬を送るよ。調べてみたのだけど、結構困窮しているみたいだね。どうだい?お母さん、楽にしてやりたいだろ?」

「なんでお母さんに直接頼まないかって?そりゃあ君のお母さんは頭が固いからだ。息子が人体実験のターゲットにされるんじゃないかって勘違いしたみたいに拒絶するんだよ。だから直接本人に交渉に来たってわけさ。」

「君の顔を検査し終えたら、僕は君と同じように生まれてしまった子や、事故で顔を失った人たちを救うためにまた年を取る顔の製造に着手していくつもりだ。どうだい?別に悪い話じゃないだろ?検査内容についても質問があればすべて答えるけど…」

僕は話をすべて聞いてみて、しばらく悩んでいたが、この怪しい男に協力してやろうという気持ちになっていた。確かに一家に金はなく、毎日銀行の通帳とにらめっこしている母が楽できるのであればそれはそれでうれしい。しかし、なによりも大きかったのは自分が享受している技術、その発展のためならば力を貸してやることは当然の義務だと感じたからである。

僕の意向を聞いた男は嬉しそうに手を叩くと、検査内容の説明に入った。あまりにキラキラした目に医者の探求心の底力ともいえるようなものを感じた。


病院での検査は驚くほど簡単なものであった。血液を少し抜かれ、覆面をチェックされ、それで終わりだった。僕が寝ている間にこっそり行っても目を覚まさないだろうなと思えるほどであった。

検査が終わった次の日から僕はまた一気に日常へと戻された。いつものように学校に通う平凡な日々が続いた。

家庭では、なにかしらお金が入ったのか母はパートをやめて家事に専念するようになった。あの医者、本当に何者なのだろうか。


半年後、高校生になった自分のもとに怪しげな荷物が送られてきた。

黒い段ボールという怪しげな包装で、表にはあの例の医者の名前とメッセージが張りつけてあった。

「○○くんへ 君のお母さんにバレないように君が留守する時間を狙ってこの荷物を送ったよ。さてさて、君の遺伝子をよく調べてみて、色々わかったから報告しておこう。君にも知る権利があるからね。君の遺伝子にはほかの人にはない非常に生命力を強くする部分がみつかったんだ。それを『元気いっぱい遺伝子』とでも呼ぼうか。それで君と同じように『元気いっぱい遺伝子』を持つ人の細胞を使って同じ製品を作ってみたんだが、これが大成功。たくさんの顔の複製をつくることに成功した。でもその人たちは正常な顔をもっているから分厚いマスクを自然にかぶることができないみたいなんだ。鼻が邪魔なうえ、眼球が深いところに潜り込んでしまってうまくかぶれないみたいなんだ。皮肉なことに君はつぶれた鼻と不自然に出っ張った目を持っているからこそ、マスクを使いこなせているんだと思う。君は自分の真の顔が醜いと思っているかもしれないが、もしかすると”この覆面を使える世界においては”一番美形かもしれない。被験者から作った製品をいくつか送るから、それを活用してみてくれ。私は健常者でもマスクをかぶれるよう開発に専念していくよ。また協力を頼むかもしれないからその時はよろしく頼むね。」

段ボールを丁寧に開けると、肌色の塊のようなものがみえた。袋から出してみてやっとそれがなんであるかに気付くことができた。

医師の研究成果である成長する覆面、それが二つ、入っていた。

 一つはまさに美男子といえるカッコいい覆面だった。鼻はすっと通っており、薄いさくら色の唇、自然な二重まぶた。今使っている物とは似ても似つかないものであった。

 二つ目は美少女。ぱっちり開いた目と小さく形の整った鼻、魅力的な下唇。僕に女装をしろというのだろうか。

確認をし終えると親にばれないようそれらの包装と手紙をすぐに処分した。

若く、好奇心旺盛な学生が、三つのマスクをどうやって悪用しようか考え始めるようになったのは、届いてから数日後のことであった。

1960年代の江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに「怪人二十面相」とよばれる怪盗がいたが、50年の時と、高い技術によって、ここに「怪人三面相」が誕生してしまったのだ。

続く