てけけ日記

フィックショーン!

蟻(アリ)

終わらないレポートを前にカタカタとキーボードを叩く。レポートは俺のキーボード攻撃を受け続け、少しずつ、少しずつ弱っている。今にも消えてなくなりそうだ。そうだ、いけいけ!俺のノートPCよ!そのレポートをやっつけろ!このKボタンはブロー、このRボタンはアッパー、いいぞ、よろめいてるぞ、ボディーに一発、Pだ!

時計をみると深夜の4時を少し過ぎたころだった。レポートクエストにとどめを刺すため、俺は残り少ない力のポーション(モンスターエナジー)を一気に胃に流し込んだ。

レポートの課題は「愛を表現する芸術」。浅識で稚拙な文章を一通り書き終え、校正していると、ふと目線の片隅、パソコンのキーボードの上で小さく何かが動いた。

目を凝らしてみてみると、それは、小さな黒蟻だった。パソコンの光を気に入ったのだろうか、もぞもぞと、頼りなげにディスプレイを登ろうともがいている。目を凝らし、よく見てみるとその仕草はなかなかにかわいいものだった。

しかし、蟻か、部屋に虫が湧いたのか?いったん自分の部屋を見渡してみる。落ち着いてよく見てみると、ゴミだらけで足の踏み場がない、なるほどこれは虫が湧くわけだ。この蟻は俺に「こんな部屋じゃだめだぞ」と忠告しに来てくれたのかもしれないな。だんだんこの蟻に親近感がわき始める。

蟻は、普段、女王蟻や姉妹のために餌を求めてさまよい歩いている。健気に働くその姿、レポートを一生懸命にやっている自分と重なる。深夜4時まで餌探し、大変そうだな、お前がいるのはスパルタの、そうとうブラックなコロニーなんだろうな。

深夜でトチ狂っていたのか、俺はその蟻に深く同情してしまっていた。少しでも疲れをいやしてやろうと俺はキッチンから腐りかけの砂糖がいっぱいに詰まった瓶を取り出し、そこからひとかけら、蟻に与えてやった。

蟻は茶色がかった砂糖を触覚で幾度もツンツンと叩いたあと、大きな塊を口にくわえ、逆方向へのろのろと進み始めた。なんと、餌を独り占めなどせず、仲間に分け与えるために戻るのか。なんてすばらしいやつなんだ!

俺はその時、ひとつ決心した。それは日本昔話に登場するような、そんな神様になることだ。この高徳なる蟻は、無尽蔵にあふれ出す利他精神から、自身の空腹を満たさずして、仲間を思い、巣へと重い重い餌を運んでいる。それを見守っている俺(神)はそれに痛く感心して、巣に多大なる恩恵をもたらすのだ。つまりはこの腐りかけの砂糖を全て彼女の出身コロニーにぶちまけてやるのだ。圧倒的利益をコロニー全体にもたらしたこの高徳なる蟻は、仲間に称えられ、女王に抱きしめられ、老後まで最高に過ごすであろう。

蟻は餌を玄関先まで運び出していた。俺は防寒具を身に着け、腐った砂糖の詰まった瓶を抱きしめて、彼女の後を追った。

蟻にしては珍しく、彼女は道路の真ん中を歩いた。こんな目立つところ歩いて大丈夫なのだろうか。車がやってきてしまって彼女を一瞬にして肉塊にしてしまわないだろうか。神は偉大だが、交通事故から守ってやることはできないからな。光が後ろから指してきて、俺は後ろを確認する。セーフ、自転車だ。

だんだん彼女のお尻がセクシーに見えてきた。彼女は今、俺の存在に気付いているだろうか。後ろから誰かが付いてきているかも、なんて思っているかもしれないな。ストーカーと勘違いして焦っているかもしれない。ふふふ、安心しな、俺は君に富をもたらす天人(てんにん)さ。君の不安が歓喜に代わり、触覚と足を上げて喜ぶ様、早く見たくてたまらなくなってきたよ。

時計を見ると5時半の少し前、朝日が俺たち二人を柔らかに照らし始めていた。


「そこらへんまでしか覚えていません。」

白く照らされた取調室で少年は俯いている。光があまりに強いので机に落ちた彼の影は濃く、輪郭がくっきりとしている。目は気持ちが悪いくらいに見開いている。今、よだれが一滴、机の上へと落ちた。ピチャっと小さな音がマイクに入った。

彼は7歳の子供を殺害した。凶器は何の変哲もない空瓶だ。犯行時刻は午前6時。淡い朝日に照らされ、何度も何度も子供の頭部を、殺傷能力に欠けるその瓶で殴ったのだろう。「痛い痛い」と泣く子供を、何度も何度も。

子供は朝、蟻の巣に熱湯を流し込んで遊んでいたらしい。巣の中の蟻は多分、熱に焼かれ、悶え、全滅しただろう。帰ってきた蟻達も、いずれ死ぬまでどうすることもできなくなるだろう。

子供を殺害した少年の目は黒く濁り始めていた。熱湯で大量の小さな命を奪った子供は自身の命を神とやらにつぶされてしまった。黒く濁った眼をした、徹夜明けの神に。


少年に愛された彼女は今、茶ばんだ砂糖の山の上、仲間を求めて泣きわめいている。

いつかその涙は枯れ、命も枯れ果てるだろう。

太陽はもう一度沈み始めていた。