てけけ日記

フィックショーン!

■失

私の頭の中で人間が殴り合うことがある。選手は二名、賢く、地位も金もある男と、重度の発達障害で、「あー」と「うー」しか喋れず、ほとんど四肢も動かない男。この二人が手に汗握れる白熱するよい勝負をするのだ。

地方都市の寂れた町の一角にある集合住宅地。茶色いヒビと枯れかけのツタを全身にまとった空き家がゆったりと間隔を空けて立つ。団地の端には一回り背の高い物件がある。二階建てで、壁は白が基調、屋根は黒。中級階級の核家族の庶民が背伸びして買ったような家だ。周りと同じように寂れ、朽ち始めている。二階には子供部屋が二部屋あり、片方は使われた形跡もなくただの物置のような使われ方をしていた。私はその部屋で今、一人の女をリンチしている。ベランダに落ちたセミの死骸の目、ビーズがちりばめられたサンダル、さび付いた物干し竿は寂しい夕空を反射し、オレンジ色に輝いている。半開きになったカーテンの前、壊れたブラウン管のテレビを枕に女はうずくまる。薄暗い部屋の角、女の頭を丸々覆った黄ばんだボロ布が赤黒い血で滲んでいるのが見える。苦しそうな女のうめき声、遠くで聞こえるカラスの鳴き声が優しく私の鼓膜を撫でる。私は力強く右手に持っていた108円の青いプラスチック製のリコーダーを強く、握りなおした。リコーダーを伝う血が親指の爪先に流れ、静かに床に落ちる。気が付くと、女の震えは止まっていた。私はまた“失敗”してしまった。

■不

自宅には猫がいる。名前はフノちゃん。凛々しい顔、ピンと立った耳、綺麗な茶色の毛並みが特徴だ。また、フノちゃんには足と歯がない。足は付け根からから4本とも無くなっていて、全体を見ると、まるで丸太にネコの頭と尻尾だけを付けたような滑稽な姿をしている。あくびで大口を開ければ歯の抜けたピンク色の幼い歯茎を湿らせた唾液が光を反射してきらめく。私が家の扉を開くとフノちゃんはいつも、嬉しそうに体を揺らして扉に近付いてくる。ころころと室内を転がる姿は本当に愛くるしい。首元を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める。怒ったときは怖い顔で、けれどもぷにぷにした歯茎で僕の指を懸命に挟み込む。猫じゃらしのおもちゃで遊んでやると、首を伸ばして噛み付こうとする。青いリコーダーで簡単な曲を吹いてやると気持ちよさそうに聞いてくれる。私はそんなフノちゃんの挙動一つ一つが大好きだ。フノちゃんは僕の中の乾きひび割れた“何か”に潤いをもたらしてくれる。

フノちゃんはもとは捨て猫だった。あの日、私は“失敗“したハトを埋めに重い足取りで山を歩いていた。雨の強い日だった。紺色のかっぱにペンキの汚れのついた長靴をはき、右手にはハトの死体を入れた少し臭いのする黒いビニール袋、左手には柄の欠けたシャベルを握り、雨水でぬかるんだ土を登っていた。獣道を逸れ、草木をかき分けて進む。泥水の上に枯れ葉が浮かぶ。視界を雨粒が塞ぐ。右目を引っ込めたナメクジが、気持ちよさそうに雨で黒く塗れたコンクリ片の上を這う。

獣道がぼんやりと見えなくなるところまで来ると、シャベルを地面に突きたてる。濡れたシャベルがいつもより重く感じた。雨の重さか、それとも命の重さか。私は8分程かけて50㎝程の深さの穴を掘り、ハトの死骸を優しく底に置いた。穴の奥でハトは真っ黒な眼孔でグレーの雨空を見上げていた。眼孔に滴る雨水のせいで少し泣いているようにも見えた。切断された翼と足の断面には小さな白いウジがワラワラとうごめいていた。土をかけていくと、次第にハトの姿がどんどん無くなっていく。その光景はより一層私の胸をきつく絞めつけた。

一通り作業を終えると、私は心身ともに疲弊してしまっていた。足早に獣道に戻ると、雨で湿ったボロボロの段ボールが見えた。上面には濡れてうねったA4の張り紙、文言は“ごめんなさい”とあった。気が付くと私は張り紙を剥ぎ、中を見ていた。中には衰弱した小さな猫、木馬をそのまま横向きに倒したような恰好で四肢をピンと張り、じっと動かないでいた。毛並みはボサボサでしっとり濡れていた。僕は、この猫を“成功”させて、ハトにしてしまった愚行の罪悪感を散らしてしまいたかったのだと思う。ハトの死骸が入っていた袋に、生きているのか死んでいるのかよくわからないこの猫を無造作に入れ、駆け足で自宅へと引き返した。帰ってすぐ、温めたミルクを飲ませ、それからは毎日大切に世話をした。

猫の体力が回復したころを見計らって私は家の庭で猫に麻酔を打ち、四肢を全て切断し、歯をすべて抜いてやった。父親の職業柄、庭の倉庫には大きめの斧があって、骨の通った足の切断にもそれほど苦労はしなかった。歯もペンチを使って丁寧に抜いた。ハトの時の反省を活かし、猫の命を刈り取ってしまわないよう、出血量に気を払いながら慎重に作業を行った。猫の4つの足に包帯をきつく巻き、血だらけになった脱脂綿を袋に詰めてすべての工程を終えたとき、私は大きく決心をした。「もう“失敗”はしない。」

猫は自分の足で歩くことも、牙でものを噛み砕いたり、敵に反撃したりすることも、自分じゃ何もできない生命体となった。私は猫に愛をこめて名前を付けた。“何もできない子”フノ(不能)ちゃん。

■夢

高校を中退する前、私は、陸上部に所属していた。黒ずんだ校舎、雑草がまばらに生えた汚いグラウンドできらきら輝く夢を、その足で追っていた。専門は5000mでベストタイムは15分30秒。市では二位を取れるほど速かった。情熱のある顧問と共に全国大会に向け、数えきれないほどの回数、グラウンドの土を蹴った。

私は誰よりも努力した。食事制限から、部活外の練習。日々のリソースのほとんどを陸上競技のために割いた。しかし、いつまで経っても私は弱かった。タイムは上がったものの、他の選手と比べると伸びしろは圧倒的に小さく、私は県の大会に進めないほど落ちぶれていった。

いつだってそうだった。好きなこと、得意なことをみつけて努力しても遥か上から見下ろす奴がいる。何をやったってやつらには勝てない。常軌を逸した才能と圧倒的効率の努力量で虫けらみたく、踏みつぶされる。 努力するしないじゃない、考え方を変える変えないじゃない、ただ、これは、一つの運命に過ぎない。 この劣等感地獄の中から這い出す術はただ一つ。生まれ変わって出直すことだ。神の愛を、天性の才を、全身に受けて。

高校3年の秋、最後の大会で大敗を喫したのち、私は学校に行かなくなった。才能もないのに努力する人間が嫌いになった。テレビや公園で、夢を追いかけ頑張る人間を見ると背筋がゾクゾクするようになった。自らの滑稽な過去を突き付けられ、また敗北者としてのレッテルを貼られなおされたような惨めな気持ちになるのだ。

■虫

煮えたぎる湯から糸をより合わせる。綺麗な蚕の白い糸である。繭の中からは成虫になりきれず、茹で上がってしまったカイコガが小さく畳まれて出てくる。私はこの作業をする時、必ず一匹一匹カイコガの顔をしっかりと見る。蚕は例外なく皆、幸せそうな顔をしているのだ。私は彼らが心底うらやましい。

生物の使命は子孫を残すこと。しかし脳を不必要に巨大化させた動物は精神や心を持ち始める。性欲を歪曲させて誕生した自我は子孫を残すことを傍らに置き、他人の承認や生きる意味を求め、幸不幸という虚構の概念の中を行ったり来たりしている。

日本で伝統的に行われてきた養蚕業ではただひたすらに蚕に桑の葉を与える。蚕は不思議な力で降ってくる餌を毎日食らい、肥えた後に、大きな繭を作る。これらの繭のうちほとんどは羽化する前に蛹のまま釜で茹で上げられ、糸が紡がれ、生糸となる。成虫になれなかった蚕の本体は飼料になり、畑の肥料や家畜の餌などに利用される。また、繭のうち何匹かは繁殖用として羽化を許される。繭を突き破って出てくるのは大きな白い羽根と黒く澄んだ瞳を持つ美しい蛾。彼らには飛翔能力がない。

養蚕業は紀元前3000年より前、つまりは今から約5000年も前から、中国で行われていた。その後日本に伝来し、主要産業となるまでに発展するのだが、この長い歴史の過程で蚕は完全に家畜化される。膨大な量の糸を吐く太った個体のみ優先され、飼育され続けた結果、彼らは飛ぶことができなくなった。飛ぶことが必要でなくなった、という言い方の方が正しい。彼らはもう二度と、5000年前のように大きく羽根を羽ばたかせ、月夜を飛び回ることはない、飛び回る必要がないのだ。

一部の人間はこれを家畜化による退化と呼ぶが、私はそうは思わない、これは紛れもなく進化である。蚕は人間に飼われ、その監視下で繁殖することを生物全体で選択したのだ。飛翔能力を犠牲にし、より多量の糸を吐くことを選んだのだ。環境に即した、戦略に優れた素晴らしい進化である。

蚕の一生、それは争いのない、能力の優劣のない暗い箱の中で、葉を食らい、繭になり、最後には湯でじっくりと溶かされる。そこには優も劣もない。ただ、裏切らない飼育者が天にいるだけである。家畜でいるかぎり、その時代に合っている限り、彼らは自由で、特別で、幸福なのだ。

私は、現代で時代に適用し、幸福に過ごせる人間は二種類いると考えている。一つは有能、もう一つは無能である。 どちらも他と一線を画すほど振り切ってなくてはならない。

義務教育で教わる人間の美徳は、懸命に努力し、人類のために何かを成すことである。人類の生活の質の向上から、手に汗に握るスポーツの発展。しかしなぜか我々は能力を付けるたび、苦しくなっていく。○○大学をでたのだからこれぐらいできて当然だ。高校時代○○をやっていたのなら、これぐらいのストレスには耐えうるだろう。自らを楽にするために高めた能力が、当然果たすべき義務となって自身に襲い掛かってくる。国が発展すればするほどこういった義務は巨大化し、その重さに耐えきれなくなった人間はその手で自身の命を絶つ。または不幸な世の愚痴をあたりに垂れ流しながら惨めな人生を終える。幸福で笑っていられるのは自らの人生をしっかり設計した有能な人間のみだ。

全く無能な人間はこれらを超越した位置に立つことができる。特に1,2級の神経系の障がい者手帳を持つものである。健常者の税金で生活しても特に文句は言われない。支援センターのお姉さんに欲情して、突然マラを掻きだしても咎められることもない。誰も文句は言わない、無能を憐れみ、支援をする。見返りとして彼らは無能を支えてやっているという優越感を得る。中途半端な障がいを持つものにとってそれは耐え難い劣等感になる可能性があるが、1,2級の神経系の障がい者手帳を持つものはそれらを感じることもなく、生きることができる。自身の心を傷つけることなく、人の承認欲を無限に満たしてやることができるのだ。

彼らは蚕のように生きている。国の補償金や手厚い介護は桑の葉として与えられ、介護者や身の回りの人間は承認欲の充足を生糸として受け取る。争いの概念も存在しない。

私は努力や争いをしない彼らを見下しているわけではない。むしろその逆だ。彼らは一般人を超越した存在なのだ。不幸になる概念が薄く、全く異なった視点から物事を見、感じている、楽園で過ごすことができている彼らが心の底からうらやましいのだ。同情や憐みを周りから受ける能力に長けた彼らを心の底から尊敬しているのだ。

蚕の世界ではより多くの糸を吐ける個体が偉い。 小学校の朝礼では一番大きい声であいさつする奴が偉い。 王将の厨房では餃子を一番早く焼けるやつが偉い。 これと同じで手厚い保障のある先進国では振り切った有能と無能が偉いのである。

その日も私は繁殖用の繭をいくつか選んで箱に戻した。丸々と太った繭は何とも幸せそうで観察者の私も心躍った。

■貢

私は公園のハトに餌を与えることがある。ろくな友人がおらず、乾きに乾いた承認欲をハトで潤している。俺が餌をやるからお前らは生きてられる。どうだ、うれしいだろ、と。

私が通う公園のハトの群れの中には餌にありつけない小さな個体がいる。頭が白毛のその子は、私が餌を放る度、大きなハトに追い回され、散々に突かれる。

私はいつの間にかその小さなハトを陸上の選手だった頃の私に重ねていた。あの小さなハトは絶対に勝てない大きな体のハトに一生周りを付きまとわれるだろう。彼らにびくびく怯え、隠れて餌をついばみ、惨めに瘦せ細り、生涯を終えるだろう。どんな努力を重ねようとも、それが運命、運命なのだ。

私は蚕に成れない。でも他のものを私の蚕にしてやることはできる。私はその小さなハトを捕まえ、自宅に連れ帰った。ハトを進化させ、幸福にするために、ハトから私が生糸を得るために。

■忘

空き家の女は死んでしまっていた。彼女を幸福にすることも、彼女から生糸を得る事も、遂にはできなかった。私は血に染まった青のリコーダーを床に叩きつけ、強く息を吐き、黒ずんだ子供用のベッドに腰を下ろした。舞い上がったホコリが夕焼けに照らされて、ほのかに輝いている。私は頭を抱え、うなだれ、ため息を吐いた。

また、頭の中で健康体の男と、重度の発達障害で、四肢の動かない男が殴り合いを始めた。一方的に殴っていた健康体の男はしばらくして周りの健常者に取り押さえられ、大勢から暴言を浴びながら、リンチを受けている。イかれ頭の四肢不随男は争いから遠い安全なところ、車いすに座り、凝り固まった顔面の筋肉を震わせて嬉しそうに笑っていた。