てけけ日記

フィックショーン!

回転寿司 後編

体の殺菌を終え、魚の体内のような臭いのするホールに入る。スーッと息を吸うと、魚の死気が鼻から脳へ通り抜ける、ボアァっとして少し落ち着く感じがする。これだよ、これこれ。頭の熱が少し冷める感じがする。入って2,3個寿司を流してすぐ、沼田が入ってきた。なんだか申し訳なさそうにこちらをうかがっている。別に彼女に対して怒りを抱いているわけではない。俺は引きつった笑顔をお返しした。

彼女とのんびり話すこともなくお互いただただ手を動かした。こんな中、俺はやはり無心になることはできなかった。

俺は多分留年になるだろうな。切り分けた魚を定位置に置く。だいたい電車の遅延証明書があったのだからそれを素直に受理してくれればいいだけの話じゃないか。いくら大学側の決まりでもだ。少しばかり目をつむり、実験担当者が情けをかけていてくれさえすれば…。いや、実験の担当者は恨むべきではないな。彼らは言われたことを全うしただけだ、なにも悪いことはしていない。俺との利害の不一致であって判断としては彼らの正義だ。じゃあ俺は誰に怒ればいい。簡単に壊れた米握り機か?Suicaをチャージしていなかった過去の俺か?それとも、電車に飛び込み、遅れを生んだイカレ自殺野郎か?考え直してみればますます俺は不遇だ。なぜこんなに不運なのだ。おかしい。おかしいんだ。運命は平等だろ?どう考えなおしても全世界の不運の排気口は間違いなく俺一点に向けられている。寿司の排出口を覗くと向こう側に幸せそうに安寿司を頬張る若者たちが目に入る。運命は平等、平等なはずなのになんでこいつらはこんなに幸せそうにしてるんだよ。おかしいだろ。不平等だ。俺だけが一心に、大幅に超えた量、人類の背負うべき一人当たりの不運を大幅に超えた量、それを背に乗せられている。そんなバカなことが許されるか。お前らも受けろよ。この不運を、この不幸せを。俺は作業着のポケットの中にある硫酸に手を伸ばしていた。手は震えている。ポケットの中、右手で瓶を強く握る。後ろを振り返ると沼田がシャリの上で安定せず、どうしても落ちてしまうサーモンを慎重に乗せなおしている。ここだ。俺は手早く硫酸瓶を開けると、中身をシャリにぶっかけた。瓶の方は蓋もとじないまま燃えないゴミの箱にぶち込む。息が上がる。後ろを振り返る。沼田が気付いた様子はない。さっとサンマの切り身をシャリに乗せ、レーンに流す。俺が創作した硫酸入り毒寿司はレーンの端に少し引きずられ、回転するようにして、光の先へと旅立っていった。

さあ、デス・ルーレットのはじまりだ。

刹那。2,3秒後だ。全身が熱くなり、嫌な汗があらゆるところから流れ出してくる。じ、自分は、とんでもないことをしでかしたんではないだろうか。これからどうなる。俺はこれからどうなる。硫酸を積んだ毒サンマは米の上、レーンに沿って悠々(ゆうゆう)と客の前を回っている。大きめに切った、プリプリのネタだ。おいしそうな見た目に惹かれ、皿を手に取ったとき、その代償は108円では済まない。その命をもって支払われる。すぐに俺のせいだとバレるだろう。当たり前だ、俺が作ったんだ。しょうもない腹いせに、人生の小さな運否天賦(うんぷてんぷ)の流れに逆上して。俺のすべてが、誰かのすべてが、なにもかもが終わろうとしている。毒サンマは今、無事にコーナーを曲がれただろうか、それとも誰かの手に渡っただろうか。手足の震えが激しくなってくる。胃の壁を中から何かに突かれる感じがする。吐きそうだ。全て出てしまいたい。視界はくぐもり、頭はガンガン痛くなる。絶望、後悔、罪悪感をぐちゃぐちゃに混ぜた粘度の高い真っ黒な液体が、俺の目、鼻、口からあふれ出し、キッチンのまな板、切りたてのマグロの上にボタボタと落ちる。脳天が針に刺されたようにキリキリ痛む。痛い。痛い。感情の液体を受け止めたベチャベチャの手。その手のまま頭を引っ掻き回す。黒いドロドロの液体に絡めとられ、髪の毛がブチブチと千切れる。それでも脳天の痛みの方が数倍強い。構わず掻きまわした。力を込めすぎたのか爪で皮膚を掻き切る感触がする。皮膚が痛い、痛い。ええい、このまま全てはぎ取ってやる。俺はさらに力を込め...

「大丈夫ですかーー?」

突然の声にハッと目を覚ます。首をかしげる沼田。俺はすぐに自分の手を確認する。千切れた皮膚が爪に食い込んでいたり、抜けた髪の毛が大量に絡まっているなんてことは全くなく、ただただ涙と唾液に塗れてびしょびしょになっていた。

「ど、どうしたんですか、いきなり...」

よかった、本当によかった。あのまま、痛みのまま、死んでしまうかと思っていた。暖かい湯のような安心感が胸の内からあふれ出し、全身に巡っていくのを感じる。

「ちょっとー?聞いてます?」

目の前にいる女が救い出してくれたのだ。暗く深い奇怪の穴の奥から引っ張り上げてくれたのだ。俺は思わず目の前の女に抱き着いた。涙と唾液で汚れた、汚い顔と手のまま。

「な、なにしてるんですか、ど、どういうこと?なになに、どうゆう状態なの、これ」

一瞬ためらったが、全て白状することに決めた。どのみちバレることだ。沼田に抱き着いたまま自分の起こした過ちについて語った。レーンの向こうはお客で賑わっている。しかし、俺の声は狭いホールにはよく響く。包み隠さず丸々話した。単位取り消しごときで激情したこと。大学の備品を盗んだこと。あろうことか私怨で商品に毒物を混ぜたこと。気が狂い、そして助けられ、今、こうして恩人を思わず抱きしめていること。

沼田は、彼女は、殺人犯に抱きしめられていることを自覚して嫌悪感と恐怖で振り払ってしまうんじゃないか、それがただただ怖かった。しかし、彼女は終始驚いたり相槌を打ったりしながらも真摯に聞いてくれた。

「なるほど。じゃあ今、レーンにその毒入りお寿司がのうのうと回ってるわけですね?」

俺はこくりと頷いた。

「ほーー。奇遇ですね。アハハ。すごいすごい。あの、あの、私もなんですよ、アハハ...」

俺は彼女が突然何を言いだしたのか全くわからなかった。

「そのー、なんていうのかな、体に入れたら死んじゃう物?それをお寿司に仕込んで、そう、先輩と同じように。さっきの聞く限りだと、ほぼ、ほぼ同じタイミングで、お客さんに、まあ、レーンに、出しまし、たね...」

頭がこんがらがってくる。至近距離で目を背ける彼女に対し、俺は抱きしめたまま、いくつも質問した。

どうやら沼田は俺と同じように些細な不幸があったらしい。その不幸の具体的な内容までは教えてくれなかったが、それにカッとなって、俺と同じような思考回路を辿って、犯行に及んだらしい。

「ドクゼリって、知ってます?結構有名な毒草なんですど。綺麗な花を咲かせるんですよ。食べるとすごい苦しんで死ぬらしいです。すごく。私、サーモンの内側にすりつぶして仕込みました。今頃、誰かが食べちゃってるかもしれませんね。」

彼女のしゃべり方はだんだん落ち着いてきていた。

「それと、私もこのまま抱き着いていいですか?どうせ騒ぎになったら私たち、刑務所に入れられるんですよね。」

少しドキッとしたが、俺は素早く何度も頷いた。肯定の意を、前に前に押し出した。彼女は手をおそるおそる俺の首に回し強く抱きしめた。

「ふふ、先輩、あったかいですね。」

心臓がバクバクと鳴る。今、外のレーンには2つの毒入り寿司が回っている。老若男女がハシで寿司をつつき、死のルーレットに参加している。一方魚をさばくホールでは、魚臭い作業着とマスク、ロマンチックさの欠片もない衣装をきた男女。ジャズもない、シックな照明もない、客の喧騒と無機質な蛍光灯の下、男女は抱き合う。まわりには魚の切り身と米を固める鉄くず、空の毒瓶と、毒草の根だ。男女は罪を償う手前、人のぬくもりを、自由を、深く噛みしめている。

「私、毒の入った寿司、流したこと、別に後悔しないかもしれません」

俺は黙ってその言葉を受け取り、頷いた。目の奥が熱く、熱くなった。

「あっ」

何かに気付いた様子の沼田は俺から離れ、レーンの方に向かった。俺もそれについていった。沼田の目の先には、緑色の気味が悪い米の塊、正確には、ネタが横に落ち、明らかに何かが塗り込まれている様子の緑の米があらわになったものが皿の上にあった。沼田は落胆したような、ほっとしたような様子だった。

「ハハ、こ、これじゃあ、誰も取らないですよね...」

よかった。沼田は犯罪者にならなくてすんだのか。って、そろそろ一周するのか。俺も自分のレーンの方を振り返る。回ってきた皿の上には真っ黒になった何かよくわからない炭の塊のようなものがあった。なんだこれは、なんで炭、炭、炭…あ、そうだ、そうだった。 硫酸には炭化作用があるんだった。硫酸は炭水化物やタンパク質の水分子を奪って炭のように黒くしてしまうのである。気が動転していて反応が起こることに全く気付いていなかった。ということはこの寿司は米やサンマを真っ黒に変色させながらレーンの上を回っていたことになる。そんな不気味な物体、だれも取るわけがないじゃないか。

「...」

二人とも何か言いだすこともなく、毒寿司を処分し始めた。ホール内は沈黙で満たされている。俺は自分の顔が熱を帯び、真っ赤になっているのを感じた。ふと、沼田の方を見る。彼女は、自分の何十倍も顔を真っ赤にしているように見えた。熱くなったのか、マスクをずらしている。血色が改善したのか魅力的な赤い唇になっていた。今度、いい色の口紅を買ってやろう。そう思った。