文字しか見えない
僕には友達がいた。その子は本が大好きで毎日のように持ち歩いていた。暗い性格でもなく、変に明るいわけでもなかった。ただ毎日のようにジャンルを問わず、膨大な量の文字を読んでいるからなのか、彼の知識量は膨大だった。幼少期でまだ難しい言葉がわからなかった頃、彼は僕が聞くたくさんの問いに明確に答えてくれた。僕にとっては手っ取り早い辞書のようなもので便利だと感じていたし、彼も自分の知識がお披露目できてなんだか満足そうだった。彼の話す現実離れした理論は好奇心旺盛だった僕の青春時代にぴったりの娯楽だったのではと今になって思う。
彼の最も好きな理論はこれだった。確か、どこかの哲学者が言っていたらしい。
「言葉がなければ僕らは何も知覚できない」
今でも覚えている。彼はこのようなことを言っていた。
「僕らは机を見ると机だと認識できるだろう?これは机という言葉によって机という概念が作られたからだ。」
哲学の初歩的な問題らしいのだが、その頃の僕は言葉が消えると世界全部が無と化してしまうのではないかと解釈して無駄に震えていた。恐怖という概念すらも消えるのだろうか。どうやら今でも理解できていないみたいだ。
ある日、彼は病院で病名を告げられた。彼は僕にその報告をしてくれたのだが、僕はそれを今でもはっきりと思い出せる。あれは学校の帰り道だった。
「ゆっくり視野が狭くなっていって一年くらいで何も見えなくなるらしい」
重い重い一言であるはずなのに、彼はまるで日々の些細な出来事を抑揚なく説明するようにそう言った。衝撃を受けた僕は足を止めて硬直してしまって、彼はスタスタと前を歩いていった。その時の僕には彼の背中がどんな大人よりも大人っぽく見えた。
彼は帰り道の日以来学校に来なくなった。しばらく休みが続くと提出物のお知らせや、手紙などを彼の家に持っていくのが僕の日課になった。家に行くと、毎度のこと元気そうにでてくれた。そうして学校に来ていた頃のように、いつものように喋った。でも学校の話はしなかった。家にこもった彼だったが、力強くこう言っていた。
「目が見えなくなる前に、なにもかもを見ることができる知識を身に着けるんだ」
彼は毎度大きなパソコンを自室から引っ張り出してきて僕に見せ、しゃべってくれた。僕には読めない漢字と彼にしか理解できない英文字がディスプレイにボオォと浮いていた。
そうして過ごすうちに一年が過ぎた。彼が完全に視力を失ったあとも僕は例によって連絡物を家に届けていた。彼は
「何もかもが手に取るように見える」
と言っていた。失った視力を補うために目に見えるはずの物はすべて文字に置き換えているそうだ。例えば椅子の方に眼球を向けると椅子という漢字が佇んでいるといった具合だ。目の前にいる僕は僕の名前が浮いているように見えるし、家の壁には壁という文字が立ちふさがっているらしい。母が戸を開けていくのも字で見えるし、木にいる雀からチュンと鳴くのも見えるらしい。床を踏んで飯を食べて布団に入るらしい。
「概念の力を借りれば、なんだって理解できる。」
「世間の浅識な奴の方がよっぽど僕より盲目だ。」
彼は口から高慢を吐き出した。
それからしばらくして、またいつものように彼の家に行ったとき、母親から驚くべきことを聞いた。
彼が家の三階から飛び降りた。という。
ひどく頭を打ったらしく、病院でまだしばらく意識が戻らないままだそうだ。僕は他にもあれこれと事情を聞いて、その日は諦めて家に帰った。晩御飯を食べて、寝室のベッドに横たわった後、天井をボオォと眺めながらあれこれ妄想した。自信満々だった彼の心を折った予想外の大事件を。
お見舞いの許可がおりて、早速彼に会いに行った。地元の大きな病院までゆっくりと歩いて行った。病室のドアを開けたとき、彼はベッドの上にいた。首元に大きなギプスを巻き、頭や腕が包帯で巻かれていて、体育座りで小さく震えながらせわしなく頭を掻いていた。近付いて話しかけると小さく返事が返って来た。早速、彼に何があったのか聞いてみると震えたままの声で返事が返ってきた。
「お前と全く同じ名前の水道局の人が来た」
「お前の名前が部屋に入って器具を出してキッチンで床をいじくってた。」
「そして名前は笑いを出した。いつも名前が玄関から来た時にするように。」
「全く一緒だった。全く、丸々全部。」
「全部。」
彼は息を吐くように言い切ると泣いているのか、見えない目をゴシゴシと擦っていた。僕にもみんなにもある目を。僕にもみんなにもある手で。そして彼は僕の名前を呻くように呼んだ。探せばどこにでも歩いている名前だ。
彼の気持ちを理解しようと、僕は帰り道に一つ実験をした。目を閉じて暗闇にもともと見えていたものの文字を浮かび上がらせてみた。なんてことはない、黒がベースの味気ない世界だった。全く同じ形をした人間がたくさん浮き、僕の両隣を通過していった。
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