てけけ日記

フィックショーン!

回転寿司 前編

寒空のある日、息を荒げながら速足で歩く。何もかもがムカつく、どうして俺ばっかり理不尽な目に合うんだ。数時間前に生じたこの苛(いら)立ちは、強い波となって未だに脳をぐいぐいと揺さぶっている。それは熱を持ち、その熱がまた、苛立ちの波を起こす。これは、どうにも落ち着きそうもない。俺は歩を速める。

予報で気温は0℃を下回ると言っていた。だがその程度じゃこの興奮した頭は落ち着きそうもない。大道路の信号を永遠のような時間待って渡り、吐きそうなくらいの異臭のするゴミ箱のそばを過ぎる。角を曲がると、自分の吐いた白い息の向こうに女が見える。夕空の下、コンビニの横、真っ白なマフラーをオレンジに照らされながら、スマートフォンを耳に当て、笑顔で誰かと話している。ああ、ムカつく。俺がこんな状態だってのになんでお前はそんなに楽しそうに笑えるんだ?

俺は中流理系大学の学生で、奨学金だけじゃ遊ぶ金がちっとも足りないから、他の学生がそうするようにバイトをしている。バイト先は回転寿司屋で、昼間と夕方は死ぬほどに忙しい。ホールに入っていて仕事内容自体は簡単、米をクソデカい機械に入れて、出てきた米の塊に切ってある魚をのせるだけだ。脳が半分腐ったチンパンジーでもできる。ただ、衛生管理はアホほどに厳しい。皮膚がちぎれんばかりに手を洗い、その上に手袋をつけた後、それをさらに消毒液(俺はこれを毒液と呼んでいる)につける。頭にはババアが風呂に入るときに使うあの気持ち悪い形をしたピンク色のビニールを被り、呼吸を妨げる小さなマスクを口にべったりと張り付ける。ホールに入れば死んだ魚の匂いがツンと鼻をつき、しばらく作業を続けるうちに気にならなくなる。こんなことを言っているが、まあ単調作業の割にはいい時給だから個人的には気に入っている。

最近、新人で沼田という女が入ってきた。150㎝前後の背丈の小さい高校生だ。店に来る時の化粧はいつも薄く、絶対不幸になるだろうなってくらいの薄い色の唇をしている。髪も少しパサついていて、私服も無難な色の上着とジーパンで統一されている。一週間前に一度、一緒にホールに入ったのだが、てんでダメだった。食器を洗ったばかりの洗剤が付いた手でネタを掴み、チンパンジー用の米握りマシーンの使い方も分からずあたふたしている。俺の仕事が増える一方だった。まあ、これほどの無能も仕事に慣れれば多少はマシになるだろう。俺は慈愛を込めて丁寧に仕事を教えてやった。

そして今日、人がほとんどいない中、俺は沼田と二人でホールに入っていた。奴のかわいい無能さに手をやきながら、「口紅を塗り、髪のケアをしろ」やら「少しはおしゃれをしてみろ」やら、前回したような会話を交わしながら、クソつまらない単調作業を二人でこなしていた。 そんな中、事件は起きた。客足が強まる昼前、俺は退勤時間目前だったので、魚を切る作業のラストスパートに入っていた。その時、ガタンッという大きな音が背中の向こうから響く。嫌な予感を感じつつ、振り返ると床中に散らばる米、米、米、ひっくり返った米握りマシーンと青ざめた顔でこっちを見る沼田も同時に視界に入る。ついに…やらかしたな…。

ごめんなさいと連呼してくる沼田に、「いいよ、いいよ」と返しつつ、床の米を一緒に片づける。一通り拭いた後、アホほどに重い米握りマシーンを二人がかりで定位置に戻し、一息つく。本当にごめんなさい、と沼田に念を押され、俺はよくわからない気持ちになってしまって、そのときなぜか吹き出してしまった。今思い返すとどこにも笑ってしまうような要素はなかったのだが、ともかく俺はその時に吹き出してしまったのだ。そんな様子の俺を見て、沼田も最初はきょとんとしていたのだが、つられてしまったのか少しずつ笑い始めた。せまいホール内に男女の笑い声が小さくこもる。「酢飯の絨毯初めて見たな」「星みたいに綺麗でしたね」。バカみたいなこと言い合ったのを覚えている。

しかし、ここからが問題だった。雰囲気が一旦落ち着いてから、機械のボタンを押す。しかし、ガガガッっと変な音が鳴るだけで全く米の塊を産まない。電源を確認し、あちこち機械を殴って再挑戦するが、復活する気配は微塵もない。嫌な空気を読み取ったのか、沼田が心配そうにこちらを見る。俺のシフトはとっくに過ぎていたのだが、朝頃は来客が少なく、店には俺と沼田と、レジのもう一人のバイト三人しかいない。客の群れが押し寄せてくる昼にはもう少しバイトが増えるのだが。機械が壊れたままでここを沼田一人には任せられないし、早急に目の前の機械を動かさなくてはならない。調理を沼田に任し、機械の前、試行錯誤した。あちこち見て回った結果、中で米が逆流して詰まっていたと原因を突き止めた。しかし正解まで来るのにかなりの時間をかけてしまっていた。詰まっていた米をやっとのことで抜き、機械が正常に動くのを確認した後、沼田にもうミスをするなよと念を押し、調理場を飛び出した。手早く作業着を脱ぎ、畳む間も惜しんで店を出た。

俺が急いでいるのには訳があった。このバイト後、通っている大学では授業があり、その内容は実験実習なのだ。基本的に実験実習は再履修が効かず、ミスを冒すと、一発で留年なんてこともあり得る。つまるところ理系大学での実験欠席は死を意味するのだ。時計を見ると、開始まで残り30分、ギリギリ間に合う時間だ。駅の階段を駆け下り、改札に入る。途端ピーっと音が鳴る。Suicaの残額だ。イライラを抑えながらチャージする。横目に過ぎていく電車が見える。イライラはさらに募る。ホームに入ると電光掲示板には5分後の時刻の表示、この時点で3分以上の遅刻が確定する。そわそわして落ち着かないので、俺はスマホを開いたりはせず、ただただ美麗なデザインの広告を睨みつけて電車を待った。しばらくして広告の女がこちらをバカにしているような顔に見え始めたとき、ホームにアナウンスがなる。アナウンス?事態を察してゾっと背中に悪寒が走る。アナウンス内容は勿論、電車の遅延報告、人身事故らしい。また誰かが死んだのか。遅れは20分。全身から嫌な汗がじんわり出てくるのを感じた。大幅な遅刻が確定した。高鳴った鼓動を落ち着けようと、椅子に座り、スマホを開いた。じ、時間はいっぱいできたんだ。血走った目で、違法ダウンロードした少年漫画を読んだ。

実験室で担当者とひどく揉め、結局その日の実験は欠席扱いとなった。中では時間に間に合った他学生がよくわからない液体とよくわからない液体を混ぜている。激高した俺の様子を憐れむような眼でこちらを見るやつもちらほらいた。5,6分もしないうちに担当者に口論を打ち切られ、俺は実験室を追い出された。ピシャリとドアが閉められた。心臓が痛かった。そのドアに挟まれたかのように感じた。疲弊した精神を落ち着けようとドアの前に座り込む。ふと、そばに小瓶が落ちているのに目が止まる。茶色の瓶で白いキャップ、小汚いラベルが貼ってある。多分、今回の実験の備品かなんかだろう。俺は大学側が困ればいいという純粋な気持ちでそれをくすね、大学を後にした。

外に出ると恐ろしいほど腹がたち始めた。実験をするはずの空っぽになった時間を公園の腐りかけの木製ベンチの上で15分ほど消化したのだが、なんだか気持ちが悪く、気が狂いそうになった。午後にもバイトがあり、それまでに結構な時間があったのだが、俺はオーナーに連絡をし、その日のシフトの時間を早める許可をもらい、某回転寿司店へと歩を進めた。早く無心で手を動かして、心臓に汚水がまとわりついたようなこの気持ち悪い感じを消し飛ばしたかったのだ。

寿司屋についてもイライラは醒めない。満面の笑みで挨拶してくる無能オーナーをひきつった笑顔でパス、更衣室に入る。すでに魚の臭いが染みついている作業着に着替える。荷物を軽く整理しているとき、鞄の中に小さな小瓶があることに気付く。そういえば、大学からこんなものくすねてきたな。ここにくるまですっかり忘れていた。別に必要なものでもなんでもない。何気なくゴミ箱に捨てようとしたとき、瓶の側にこびりつくように付いた黄ばんだラベルが目に留まる。よくよく見てみると、そこには「硫酸」の文字。劇薬だ。俺は慌てて小瓶を作業着のポケットに滑り込ませ、あたりをキョロキョロと見渡した。幸い、だれもいない。確か、こういった劇薬を持ち歩くことは法に触れるんじゃなかったっけ。しかし、よくもこんなものを鞄に入れて持ち歩いていたものだと思う。何かの拍子で空いてしまっていたら…、俺は身震いした。オーナーがマスターキーを持っているこのセキュリティガバガバなロッカーにこの劇薬をしまっておくのは気が引け、そのまま作業着のポッケに入れておくことにした。