顔-3
引用元不明:“心の底から、本気で、自分から乖離した全く別の何者かになりたいと切に願うほど、親不孝なことはない“
僕の席は教室の後ろの方にある。私語の絶えない騒がしい授業の中、今日もいつも通りぼーっと黒板を見ていた。しかし、ふと気が付くと、僕は自身が目の焦点を最前列に座る女子の後頭部に合わせていることに気が付いた。きれいな黒髪でよくよく手入れがなされたいつもの後頭部だ。
僕は彼女と中学高校が同じで何回もクラスが一緒になったことがある。彼女とほとんどしゃべったことはないが、僕はいろんな場面で気を抜くたびに彼女を自然と目で追っていた。彼女は別段かわいいわけでもない。ただ、たぶん僕にしか理解できないような独特な愛嬌があって、その一挙手一投足が僕の心を揺さぶるのだ。遠くから彼女の屈託ない笑顔を見るたびに僕の心も癒されていた。
僕は中学高校の数年間、その思いを伝える機会も勇気もなく、ずっと胸の内にしまっていた。もともと異性との会話は得意ではなかったし、本当の醜い顔がばれてしまうような恐怖も感じていた。
家に帰るとまた彼女のことを思い出していた。ここ最近は特にひどい、彼女は意識せずともふっと頭の中に現れ、僕の脳のありとあらゆる部分を彼女色に染めてしまうのだ。
そんな中で僕の中である欲望が生まれていた。
「彼女と楽しく言葉を交わしてみたい」
この欲を満たすために僕は自分の強みを活かすことにした。自室のタンスの奥の奥から例のマスクを取り出す。胡散臭い医者からもらった美少年マスク、僕は、おそるおそるそれをかぶってみた。
鏡の前で自分の顔を見てみると、なるほど確かに別人だった。目も鼻も唇も元の顔とは比べ物にならないほど整っている。「あ、い、う、え、お」などと声を出してみたり、口角を上げて笑ってみたりした。表情が豊かで好印象な美少年だな、と他人事のように思えた。覆面には何らおかしい部分はなく、ほとんど違和感なく動いた。
見た目以外にも顕著な変化が表れていた。整った自分の外見を見つめていると、匿名感を基盤とした自信、それが心の中のあらゆる壁からにじみ出るように立ち現れてくる。僕はなんだか自分が恵まれた人間であるように感じ始めていた。
時計を確認する。ちょうど、彼女が部活から帰る時刻だ。僕は母にバレないよう物音をできるだけ押し殺して外出した。
自分は今、イケメンだから彼女に話しかけることができるはずだ。イケメンはそういうことをしても不自然ではないし、そういう権利がある。僕は異様な自信感を保ちながら、彼女の帰り道を練り歩いた。
本当の本当に別人のようだ。僕は自分の歩く姿勢でさえも従来とは異なっていることを身にしみて感じていた。普段使わない筋肉を使って無意識に歩いているような感覚。不思議だった。演じる気はなくても、僕はこの美少年を“演じて”しまうのだ。
ガードレールに座り、イケメンがしそうな足の組み方をし、スマホをつついていると、前の方からついにターゲットがやってくる。僕は一瞬たじろいだが、(自分はナンパ師だ!!)と強く自己暗示をかけ、静かに呼吸を整えた。彼女の足音が近づいてくる。心臓がバクバクとペースを上げて打ち出すのを感じる。彼女がこちらをちらっと見たのが見えた。整えたはずの呼吸が荒くなっていくのを感じる。彼女の足音が大音量になって頭に響いてくる。パニックになりそうなのを抑えながら、短い呼吸で息と心拍を整える。そして…
彼女が目の前を通りかかる。
彼女が目の前を通る。
彼女は遠くへ去っていく。
全て、全ての貴重なあの時間、あの一瞬、僕は全く声が出せなかった。思い知らされた、美少年、つまりは別人になれるアイテムを使ってもなお、異性に話しかけられないほど自分は勇気がないのである。僕は自分の身の振り方の矮小さに落胆し、両手で顔を覆った。大粒の涙が指の間から溢れる。「チクショウ…チクショウ…」
「大丈夫ですか?」
ぐるぐると後悔と自責が渦巻く中、突然声がかけられる。僕は半ばびっくりしながら、顔から両手をのけ、涙を袖で適当に拭い、前を見た。心配そうにこちらをのぞき込む彼女が立っていた。
「なんか嫌なこととかあったんですか?」
僕は突然の状況に慌てふためいてしまって、何も言葉が出てこなかった。言い訳、嘘、そういった類の言葉を頭の中でたくさん生産する。しかし、口から出せるものは何も生まれない。行き詰まり、びくついていると、
「向こうで話聞きますよ。私も今日嫌なことがあって…。こういうのって、知らない人に打ち明けるのが一番だと思うんです。」
彼女に連れられ、僕はいつの間にかファミリーマートの前で彼女とアイスを食べていた。僕はバニラのカップアイス、彼女は片手にスイカのアイスバーを持っていた。コンビニの前に他に人はいない。半分死んだセミが焼けるように熱いアスファルトの上から見透かしたような目でこちらを睨んでいた。
彼女の悩みは些細なことだった。所属している陸上部の顧問が精神的に攻撃をかけてくるらしいとのことだった。僕は終始、自分のできる最大限の愛想を出力し、自分の学校の事情をまるで一つも知らないかのように答えた。
そして恐れていた質問がやってくる
「さっきはどうして泣いていたんですか?」
僕は彼女の悩み相談に乗っている間に練りに練っておいたホラ話を繰り出した。美少年である自分に相応しい悲劇。彼女有りが前提のイケメンの悲劇。
「彼女に振られた、それだけなんだ」
「そうだったんですか…。」彼女は小さく相槌をうつ。
どんよりとした空気になり、廃れたコンビニの前に沈黙が生まれる。
「彼女、どんな人だったんですか?」
「んー、別段かわいいわけでもなかったよ。ただ、僕にしか理解できないような独特な愛嬌があって、その一挙手一投足が僕の心を揺さぶるんだ」
「お付き合いされてた人のこと、大好きだったんですね。ものすごくかっこいいから結構遊んでる人だと思ってました。」
「はは、僕ってそんな風に見えるかな?」
「見えますよ。私は美男美女はみんな遊んでるって偏見持ってるくらいですから。実際のところどうなんですか?その甘い顔を活かして結構楽しんでたりするんですか?」
「ま、まあ、誘われちゃうとどうしてもね」
これは、イケメンらしい受け答えなのだろうか。
「わー、絶対すごく遊んでるクチですねー、これは。」
「…。」
「やばかった女話とかあったりします?メンヘラ女話とか。」
「…。」
僕は返す言葉もなく黙ってしまった。そして彼女から重い重い一言が放たれる。
「それか…私とも遊んでみませんか?」
僕は一瞬わけがわからなくなった。それは”あれ”を意味しているのだろうか。
「それって…そういうこと?」
「そういうこと、ですよ?」
「あー、ト、トイレ、トイレ、行っていい?」
「え?はい、どうぞ」
僕は速足でコンビニのトイレに駆け込んだ。突然起きた出来事に困惑する。「遊ぶ」とはきっとドエロいことなんだろう。僕はトイレの蓋を閉め、その上にそっと座ると、一流のナンパ師なら知っているであろう情報を片っ端からスマホで調べ上げた。「近くのラブホテル」「性行為の極意」「正しい避妊」。便利な時代でよかった。
どれもこれも昔に知っておかなくてはと興味本位で見たサイトばかりであった。そのときはどこか夢心地で別世界のことだとでも思っていたのだろう。
今、このサイトは不気味なほどに現実味を帯びている。まるで別のサイトのようだ。読む僕も別人のように血眼になって見ている。僕は最後までイケメンを演じきれるのだろうか。
情報を頭に叩き込んでトイレを出る。コンビニで飲み物と避妊具を買い、呼吸を整えて外に出る。出迎えてくれた彼女はごく自然に僕の手を握った。何が起きているのか全く理解できず、頭がおかしくなりそうだった。
高校生のわずかな小遣いでも足りると判断したこじんまりとした格安ラブホテルに着く。他の老夫婦が出てくる。僕はサッと顔を伏せた。彼女は堂々と前を歩く。
中に入り、無人の受付に戸惑っていると、彼女は慣れた手つきで部屋番号を選んだ。エレベーターのボタンも、部屋までのルートも、入室のカード操作も、全て彼女にやってもらった。僕はもはやイケメンとよべる存在ではなくなってしまっていた。
部屋の中は不思議な雰囲気だった。薄暗い照明がベッドを中心に照らしており、作り物の苗木がその光を淡く反射していた。靴を脱いで上がる。大きな洗面台には馬鹿でかい鏡があり、前にはシャンプー、リンス、歯磨きセット、ワックスが几帳面に整理されてあった。広いバスルームには大きなジャグジー、床は大理石チックで高級感をまとっていた。あちこち見て回る僕に対して彼女は呆れたように
「初めて来たんですか?」
と疑わしそうに聞いた。
それからは初めての連続だった。とろけるような甘い体験だった。きっと、一生忘れることはないと思う。
退室の時間になり、僕はそそくさと服を着た。彼女は僕を相手にした感想をずっと語っている。僕には恥ずかしくて言えないような言葉をなんの躊躇もなく吐き出す彼女。僕の中にあった彼女は清楚で可憐ではなくなってしまった、そのかわりに劣情を煽る魅力的な存在に姿を変えていた。
ホテルを出た後もしばらくは二人で歩いた。会話は僕が相槌を打つだけになっていた。別れ際、
「そんなに遊んでなかったみたいだったね、まあそれはそれですごくよかったかも。また遊ぼうね。いろいろ教えたげるよ。」
彼女はそう言い残し、僕に電話番号を伝えると、足早に去っていた。
彼女の後姿を見る。暗闇の街灯にほんのりと照らされた黒いスカートがひらひらと揺れている。僕はその布切れの動きにくぎ付けになっていた。
続く 5本立てになりそうです。
おまけ
114514年度 センター試験 国語
問1.「一挙手一投足」の意味は次のうちどれか
① ちょっとした努力。わずかな骨折り。
② こまかな一つ一つの動作や行動。
③ 四肢を含む手足の動き。
④ 努力して目標を達成すること、またはその過程。
問2.最後の発言で彼女が敬語をやめた理由として考えられるものは以下のうちどれか。
① 初めは年上だと思っていたが、ラブホテル内での会話で「僕」が同い年だと気付いたため。
② 初めは年上だと思っていたが、ラブホテル内での「僕」の挙動が自分より幼稚に感じたため。
③ 初めて会う人には敬語を使うのは当然で、ラブホテル内で十分仲が深まったので打ち解けようとお堅い敬語をやめた。
④ 年上だと思っていて敬語を使っていたが、ラブホテルで共に過ごすことによって気がぬけてしまって敬語をやめてしまった。
問3.最後の行で「僕」が彼女のスカートにくぎ付けになっていた理由は以下のうちどれか。
① ラブホテルで服を着たときに彼女のスカートがずれていて、そのままになっていたから。
② ラブホテルでの行為の後、彼女の存在が「僕」の劣情を煽る象徴となったため。
③ ラブホテルでの行為の後、彼女の清楚で可憐なイメージがスカートのひらひらで現れていたため。
④ ラブホテルでの行為の後、街灯が照らす彼女のスカートが妖艶に見えたため。